フクシマ:Criiradが事故対策に「重大な怠慢」と非難

http://www.lemonde.fr/asie-pacifique/article/2011/06/29/la-criirad-denonce-des-carences-graves-dans-la-gestion-de-la-catastrophe-nucleaire-au-japon_1542705_3216.html

Le Monde fr. avec AFP 29/06/2011ル・モンド』電子版2011年6月29日付 AFPと共同


 Criirad(Commission de recherche et d’information indépendantes sur la radioactivité「放射能に関する独立的研究・情報委員会」)は29日(水)、現地調査を終えて、3月11日に起きた福島の原発事故への対応において、日本の政府当局に「重大な怠慢」があったことを非難した。

 「チェルノブイリ事故から20年後、事故への対応がなぜこれほど嘆かわしいものでありうるのだろうか」、ブリュノ・シャレロン氏は記者会見の際、そう疑問を呈した。彼は核物理学技術者で、委員会のメンバーであり、5月の間、日本で測定や採取を行った。

 彼によれば、「必要な範囲での住民の避難が行われず」、「爆発の3時間前に錠剤を摂取しなければならないのに」ヨウ素の錠剤が早期に配布されず、今のところ、放射能が新たに大量に放出された場合に錠剤の配布計画もない。そして、住民が汚染された食料を食べることが放置されている、と彼は確言した。


チェルノブィリで行われたことが日本で行われている」同氏はさらに次のように述べた。「原発の周囲20キロの立ち入り禁止区域をはるかに超えたところで、容認しがたいほどのガン発生危険性をもたらす放射能レベルがあり、現地では、一般に認められているものの20倍ものガン発生危険率が容認されている」。

「現地では、当局も企業側も事態に対応しきれないのがわかる」と同氏はさらに続けた。彼によれば、原発の周囲数十キロの地域で「住民を避難させるか土地の汚染を除去しなければならい」。

同審議会の会長であるロラン・デボルド氏は、受けることが容認される放射能レベルが、事故のたびにそのあとで「引き上げられる」ことを憂慮している。「経済的な理由から、チェルノブイリで行われたことが日本で行われている。」補償費用がかかりすぎるので「高濃度に汚染された地域に住んでいる」住民の避難が行われていないのだ。


(trad. M. M.)

日本はどこへ?


原子力政策は増大する軍事化の一部


http://www.tagesspiegel.de/meinung/wohin-treibt-japan/4010890.html

Der Tagesspiegel ターゲシュピーゲル
電子版:2011年3月31日紙面:2011年4月1日


木戸衛一


理性的な人間であれば誰もが、日本は今こそ従来のエネルギー政策を根本的に転換すると期待するだろう。ところがそうでもなさそうだ。日本は電力の約30%を原子力に頼っている。政府は、2020年までにこの数値を40%に引き上げようとさえしている。この非常にリスクの高い政策には、寸分たりとも変化を加えてはならないのだ。日本が原発推進政策にこれほど執着するのはなぜなのか。一つの実証済みの解釈は、日本に核兵器所有の意図があるということだ。

1969年、西ドイツ外務省との秘密交渉で、日本が核兵器の共同開発を提案した事実を、日本外務省は2010年11月末になってようやく認めた。

日本は核拡散防止条約(NPT条約)に不満を持っていた。日本が「二流国」であることに耐えられなかったのだ。当時、西ドイツ側の交渉団のトップは、外務省政策企画部長のエゴン・バールだったが、日本側はこの秘密交渉で、西ドイツに対し今後10〜15年後に核兵器を所有せざるを得なくなる緊急事態が発生しうるというシナリオを描いてみせた。

日本の提案が西ドイツに受け入れられなかったため、日本・西ドイツの核兵器共同開発は実現に至らなかった。そこで、日本は米国の核の傘に入った。そもそも、唯一の被爆国である日本が、原子爆弾の軍事的効果を信奉することこそ、根本的な矛盾なのだ。

冷戦の享受者である日本が、近隣地域に対等なパートナーを持てずに来たことが、周知の事実となって久しい。北朝鮮による脅威だけではない。中国、韓国、ロシアとの領土問題は先鋭化してきている。

日本の反応は戦闘的だ。2010年12月17日、今後防衛力はもはや従来の抑止構想によらず、あらゆる事態において抑止と対処を可能にする「動的防衛力」が必要だとする閣議決定が行われた。これは事実上、日本が専守防衛を放棄するという宣言である。平和主義的な憲法第9条をないがしろにして、日本は攻撃的武装を行おうとしている。いつでも、どこでも、米国の側に立って軍事的プレゼンスの用意ができているということなのである。

2010年から11年にかけて、少なくとも1361名の「自衛隊」兵士が、外国での任務についている。前年度に比べ、400人増えている。しかもこの間自衛隊は、外国(ジブチ)に軍事拠点すら置いているのだ。

北東アジアでの孤立状況を前に、日本のメインストリームの間では、「日米同盟」が呪文のように繰り返されている。今回の震災では、自衛隊の救援活動と並んで、米軍の支援活動が過度に称賛されている。他の多くの国々が日本に援助の手を差し伸べてくれたのを、マスコミは忘れ去っている。

原発事故が改めて明らかにしたのは、「国が言っているから安全なはず」というモットーにしたがって、お上を盲信することの危うさである。今こそ日本人は、系統的に教えこまれてきた考え方を克服する時だ。

これはもちろん権力者にとって不愉快なことだ。事故の本当の状況や放射能汚染について、彼らはあまり熱心に情報を提供していない。自衛隊の救援活動については、軍人精神に拍手が送られている。

震災以後、政治論争は途絶えたままである。現在の与党と以前の与党との違いは、ほとんどなくなっている。どちらもネオリベラル、米国追従、軍事志向だ。この未曽有の国難につけこんで、大連立を組み、憲法9条を廃止することもあるかもしれない。もしそうなれば、これは世界からの支援に対する致命的な裏切りとなる。


著者は大阪大学政治学を教えている。2009年、ベルリン自由大学で『1945年以後日本の再軍事化』の研究で博士号を取得した。



【翻訳協力:山下秋子】

「退職者たちの行動隊」、フクシマの若い労働者たちに交代を申し出

http://www.lemonde.fr/japon/article/2011/06/06/fukushima-le-corps-des-veterans-propose-son-aide_1532374_1492975.html

Le Monde Le 7 juin 2011
ル・モンド』2011年6月7日



彼らの数は250人近い。年齢は60代かそれ以上。3月11日の震災で事故を起こした福島第一原子力発電所で、放射線のリスクに立ち向かう用意がある者たちだ。

この人々の中には、技術者も、医師も、あるいは単なる労働者もいる。彼らはみな、山田恭暉氏(72才)の呼びかけに応じた。彼は住友金属工業を定年退職した技術者だ。燃料棒の一部が溶解している2号機、3号機のそばで、毎日交代しながら働いている人々をテレビで見た山田氏は、何かしなければ、と思い立ったのである。

彼は、今日ではその欠陥が明らかとなった原子力政策を「意図的にせよそうでないにせよ」支持したのは自分の世代であり、またその結果を引き受けなければならないのもこの世代であって、原子炉を安定させるために送り込まれるのは若者たちであってはならないと考えている。彼は言う。「これは決死隊なんかじゃありません!私たちの寿命は、あと15年から20年くらいといったところでしょう。放射能による癌が進行するほどの時間は残されていないのです!」

彼の呼びかけがなされた後で、247人の退職者たちが、自分たちの責任感を表明するべく意思表示を行った。こうして「退職者たちの行動隊」が誕生したのだ。彼ら老齢のボランティアたちは、政治家ならびに原子力発電所を動かしている東京電力(Tepco)に申し出た。だが彼らの提案は採用されなかった。

原子力の元専門家である16人の勇敢なシニアボランティアからなるもうひとつのグループは、飯舘村の家々の洗浄をおこなった。この村落は警戒区域(20キロ圏内)から約10キロメートル離れたところにあるが、高いレベルでの放射能が検知されている。


「フクシマでは、人員の安全が保証されているとは言い難い」

福島原子力発電所の状況が、安定しているとは言い難い。東電は、6月5日(日)に、原子炉冷却のために用いられた数万リットルの汚染水を、一時的に保管するための貯蔵タンク370基を、トラックで輸送することを発表した。この貯蔵タンクは、合計で4万トンの容量がある。東電の株価は、大規模な損失を報じた情報によって、6月6日(月)に大幅に落ち込んだ(27.62パーセント)が、東電は1月までには原子炉の温度を100度以下に抑えて安定させることを望んでいる。

3月11日の地震津波から三ヶ月が経とうとしているが、原子炉を冷やすために交替で働いている人員の安全が保証されているとは言い難い。福島原子力発電所を幾度か訪問した愛媛大学公衆衛生分野長、谷川武医師はこのように語る。「労働と休息─多くの場合共同寝室だが─の条件は改善したが、まだまだ不安定であり、体力を回復させるための睡眠が不足することによって、事故につながる恐れもある」。またこの医師は、次のように分析する。「働いている人たちはストレスに冒されている。彼らは危険に直面しており、また近隣に住んでいた人であれば、近親者や家を失ったという苦痛を内に秘めていることもある。避難所で暮らす家族の元に帰った者の中には、彼らの勇気を称えながらも、東電のために働いたことを非難する他の被災者たちから、排除されたと感じる人もいる」。

3、4号機の中央制御室で働いていた二人の社員は、6月3日(金)に、一年間250ミリシーベルトの被曝限度量を超える放射線を浴びていたことが公式に認められた。

老人たちは、この震災でもっとも被害を受けた年齢層である。第二次世界大戦直後の困難と犠牲を知る彼らは、公共への奉仕の観念が根付いた世代でもある。シニアボランティアたちの献身が呼び起こす賛嘆の念がいっそう高まっているのは、政治家たち─大部分は60歳代である─が、6月2日(木)に内閣不信任案を提出し、国全体を覆っている現在の危機に際しては時宜を得ないと言うほかないこの行動によって、いかにもお粗末なイメージを与えてしまったせいでもある。この不信任案は、菅直人首相が数ヶ月以内の辞任を表明したため、否決された。

この政治の混乱を、世論は、怒りとともにではなくとも、苦々しく受け取っている。その一方で、原子力発電所では人々が日々健康を危険にさらし、10万人の人々がいまだ避難所で暮らし、被災者たちはまだ、身近な人々の遺品を求めて、瓦礫の間を探し回っているのだ。


Philippe Ponsフィリップ・ポンス


(trad. AK)


参考)福島原発暴発阻止行動プロジェクト」
http://bouhatsusoshi.jp/

原発事故の背景になれあい体質(下)

http://www.nytimes.com/2011/04/27/world/asia/27collusion.html

オオニシ・ノリミツ、ケン・ベルソン


(承前)


研究者でも、原子力産業に異議をとなえれば、疎まれることになりかねない。3月11日以後、原子力産業をめぐる馴れ合いが注目を集めるにしたがって、原子力の安全に疑念を表明した研究者たちへの差別が、日本のニュースメディアでも幾度か取り上げられた。


日本の原子力研究は、政府や原子力関連企業の資金によってまかなわれている。批判的な研究者たち、とりわけ京都大学所属の「6人組」は、存分に研究をさせてもらうことができず、数十年の間、助手[助教]のまま冷遇されてきた。


そのうちの一人、小出裕章氏は原子炉の専門家で、京都大学助教のポストから37年も昇進できずにいた。若いころは研究助成金に応募しては失敗していたと、小出氏はいう。「私のようなアウトサイダー助成金は出ないのです」と彼は述べた。


アメリカで原子力産業を規制する中心的機関、原子力規制委員会(Nuclear Regulatory Commission)の場合、電力会社や製造業者とは関係のない技術者たちが一定数いて、そこからスタッフを調達することができる。その中には、職業的訓練を海軍で受けた者や、ブルックヘブン[国立研究所]、オークリッジ[国立研究所]で受けた者もいる。


そのため、原子力規制委員会は提案や規程を作成する際、原子力業界自身に依存することがなくなっている。これに対して日本の場合、原子力安全・保安院は、包括的な規制を作成できるだけの技術的知識をもちあわせていない。そのため、必要な専門的知識を原子力業界の専門家に依存しがちになる。


原子力安全・保安院には電力会社を規制する法的権限がありますが、電力会社側の提案を公正に評価するだけの技術的能力が明らかに欠けているのです」と、アメリカと日本の原子力業界で30年近く働いた経験をもつ佐藤暁[サトシ]氏は語った。「もちろん、規制する側はわざわざ独自の見解を述べてまで危険をおかそうとはしないものですが。」


佐藤氏によれば、原子力安全・保安院の検査担当者も十分な訓練は受けていないため、検査はさほど厳しくない。電力会社の採算が合うように安全基準も手加減されている、と佐藤氏を含む数人は指摘する。


国会の支配層

原発産業における最大の受益者に属する政治支配層は、安全基準を高めることには大して関心を向けてこなかった。それどころか、批判者たちに言わせれば、監督を手加減することは政治家たち自身の利益にもかなうことであった。高額な改修は、新しい原子炉を作る上でハードルとなるが、原子炉が作られれば、受け入れ自治体には、建設計画、雇用、多額の補助金が転がり込むのだ。


1955年から2009年までほぼ切れ目なく日本で政権を握っていた自由民主党原子力関連企業の経営者層と親密な関係をたもっている。2009年に政権をとった民主党労働組合に支持されているが、日本の労働組合はどちらかといえば経営寄りだ。


自由民主党の政治家のなかでも改革派として知られる河野太郎氏は、「自民党民主党も電力会社に牛耳られていて、電力会社の言いなりなんです」と語った。


日本の選挙制度のもとでは、国会議員のうちかなりの割合が[比例代表の形で]間接的に選出されるが、政党は支援団体への見返りとして国会の議席をあてがうこともある。1998年、自由民主党東京電力の元副社長、加納時男氏に党の議席をあたえた。
【注】「加納前自民参院議員、東電に里帰り」(しんぶん赤旗 2011年5月4日付)http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2011-05-04/2011050411_01_1.html
ウィキペディア「加納時男」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E7%B4%8D%E6%99%82%E7%94%B7


日本経済界最大のロビー団体である経団連(その最大の所属企業のうちに東京電力も含まれている)を後ろ盾に、加納氏は参議院で6年の任期を2010年まで2期務めた。氏はその後、東電に顧問として復帰している。相互の権益で持ちつ持たれつの世界とはいえ、さすがに人々も眉を顰めた。


議員として在職している間、加納氏は原子力を中核にすえた日本のエネルギー政策見直しを唱え続けた。エネルギー政策にかかわる委員会などでは主導的地位を占めたが、こうした委員会を通じて、原子力業界がずっと求めていたような政策(たとえば高速増殖炉での混合酸化物燃料(いわゆるMOX燃料)の使用)を提言した。加納氏はまた電力業界に対する規制緩和の反対論者でもあった。


加納氏は1999年に国会でも、政府の検定済み教科書の原子力に関する記述が偏向していると批判した。国会会議録によれば、加納氏は「太陽エネルギーについてはいいことばかり書いてあり、原子力については悪いことばかり書いてある」と発言している。
【注】1999年4月7日の参議院決算委員会での発言。(議事録では「太陽等についてはいいところだけが書いてある。そして、原子力についてはネガティブなところだけが書いてある」となっている。国会会議録検索システム http://kokkai.ndl.go.jp/ で検索可能)
加納時男「エネルギー教育は各論が大事」(原子力発電四季報 第24号 2003年9月)http://www.fepc.or.jp/library/publication/teiki/shikihou/shikihou24/p3.html


何より重要なのは、2003年に加納氏の主導で、日本政府がエネルギー基本計画を採択したことである。同計画は、エネルギー自給率向上や日本の温室効果ガス排出量削減への方策として、原子力の拡大を求めるものであった。


加納氏の議員としての活動は、自民党内部からも批判をまねいた。「加納さんは電力会社に都合のよいようにすべてを書き換えてしまった」と河野[太郎]氏は述べる。


東京電力の広報担当者が同席して同社でおこなわれたインタビューのなかで、加納氏は、自分の議員活動が「確信」にしたがうものだったと述べた。電力会社や原子力業界の支持を受けたというだけの理由で、原子力村の使い走りとして国政をやってきたなどというのは失礼千万だ、と加納氏は述べる。


リヴァイアサンの取り込み

原子力村の基盤は揺るぎないもので、戦後日本最大の政治的変動ですら難なく切り抜けた。1年8カ月前[2009年8月末]に民主党が政権をとった際にも、原子力産業を改革し、原子力安全・保安院を強化することがうたわれた。


当時同省の大臣政務官を務めていた民主党議員、近藤洋介氏によると、安全・保安院の改革に関する公聴会経済産業省で2009年から始まった。だが、2010年9月、[菅第1次改造内閣のもとで]新しい経済産業大臣が任命されると、公聴会は頓挫したと近藤氏はいう。


このとき入閣した大畠章宏経産大臣は、日立製作所原子力設計部で技術者だったという経歴をもち、民主党内の原子力発電推進派でも最も影響力のある一人だ。大畠氏は、民主党への働きかけによって、原子力発電の公的な呼び方を「過渡的エネルギー」から「基軸エネルギー」に変更させた【注】。氏は2011年1月に[菅第2次改造内閣で]国土交通大臣に就任したが、側近によれば、インタビューには応じられないとのことだった。

【注】民主党の政策資料で原子力が「基幹エネルギー(main energy)」に類する表現で呼ばれているものは見当たらなかった。が、政府が2010年6月に策定した「基本エネルギー計画」には「基幹エネルギー」の表現が見られる(以前のバージョンにも「基幹電源」の表現あり)。同党の近年の政策集で原子力に関する記述がより積極的なものになっている点については、次の記事を参照。
民主の原子力政策 「慎重」から前向き(東京新聞 2011年4月5日付)http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/nucerror/list/CK2011040502100005.html


原子力の規制を強化しようという動きが後回しにされた時期、政府は、東電顧問で元議員の加納氏によって作られたエネルギー計画をあらためて持ち出してきた。そこには、2030年までに14基の原子力発電所を増設し、原子力とその他の代替エネルギーによる発電比率を34%から70%まで引き上げる計画など、新たな項目も盛り込まれていた。


さらに、エネルギー難の発展途上国に向けた長期的輸出戦略において、日本は原子炉と関連技術の受注をその中核にすえようとしていた。この目的のために、国際原子力開発株式会社という新しい企業が設立された。同社の株主は、日本の原子力発電主要9社と、原子炉製作企業3社、それに政府となっている。
【注】「『国際原子力開発株式会社』の設立登記のお知らせについて」(平成22年10月22日)http://www.jined.co.jp/pdf/101022-j.pdf


原子力村は、この新企業とともにグローバル展開を目ざしたのだ。政府の株式保有率は10%。東京電力は最大の20%で、同社の最高幹部の一人[武黒一郎氏]が、新会社の代表取締役に就任した。


(trad. SS)

原発事故の背景になれあい体質(上)

http://www.nytimes.com/2011/04/27/world/asia/27collusion.html

オオニシ・ノリミツ、ケン・ベルソン

2011年4月26日



【写真】東京電力清水正孝社長と同社役員ら、郡山の避難所で暮らす被災者の前で許しを求めてひざまずいている
(Kyodo/Reuters)


東京 ― 日本の原子力産業がおそろしく閉鎖的であることを考えると、日本の原子力史上最も深刻な隠蔽事件を暴露したのが部外者であったのは、当然かもしれない。その事故は福島第一原子力発電所で起こった。先月[2011年3月]の地震津波の後、日本が必死に事態を収拾しようとしている、あの福島第一である。

ゼネラル・エレクトリック社のもとで福島第一原発の点検をおこなっていた日系アメリカ人スガオカ・ケイ氏【注】は、2000年、日本の原子力行政を所管する主官庁[当時の通商産業省]に、蒸気乾燥機のひび割れが隠蔽されていると告発した。もしこれが明るみに出ていれば、事業者である東電は、電力会社として一番やりたくないこと、つまり、高額な修理作業を行なわざるをえなかったろう。
【注】スガオカ・ケイ氏については、東電のトラブル隠し: http://www.youtube.com/watch?v=fBjiLaVOsI4
および、当サイト3月30日の記事: http://d.hatena.ne.jp/kentao/20110330 を参照】


その後に起こったことは、国内の原子力企業、監督省庁、政界を結ぶ癒着として批判されてきたものの、典型的事例であった。

内部告発者を守る新しい法律[2006年施行の公益通報者保護法]にもかかわらず、監督機関である原子力安全・保安院は、スガオカ氏の身元を東電側に告げ、事実上、彼をこの業界から締め出すことになった。原子力安全・保安院は、自分たちで調査官を福島第一原発に派遣するのでなく、東電が自社内で原子炉を調査するよう指示した。原子力安全・保安院は、東電に対してその後2年間の原子炉操業延長を認めたが、後の調査では、同社幹部たちが、炉心を覆っているシュラウド[隔壁]のひび割れなど、さらに深刻な事故を他にも隠蔽していたことが明らかになった。

チェルノブイリ以来、この種の災害としては最悪のものとなった福島第一原発の事故に対して、こうした安全上の問題や手ぬるい規制がどの程度まで関与していたかを見極めるには、まだ数カ月あるいは数年を要するかもしれない。だが、原発での事故や放射線への恐怖のために国じゅうが引き続き混乱に陥る一方、日本人は次第に疑いはじめている。3月11日に日本を襲った自然災害に対して福島の原発がこれほどまで無防備だったのは、日本に根を下ろしたなれあい体質のためではないか、と。

すでに、日本と欧米の専門家たちの間で強くなっている意見によれば、規制が一貫性を欠いていたり、不在だったり、実行をともなわなかったりしたことが、今回の事故に大きな影響を及ぼした。とりわけ、津波から発電所を守ることのできなかった防潮堤の低さや、原子炉冷却装置の非常用ディーゼル発電機を地上レベルに設置するという決定だ。こうしたことのために、福島原発津波による浸水をことさら受けやすくなったのだ。

福島第一原発で最も古い1号炉の使用を10年間延長したことが意味するのは、是が非でも原子力利用の拡大を目指してきた政治家や役人や企業上層部が、原発の規制システムに手加減を加えることができた、ということである。監督当局は、津波のわずか数週間前【2月7日】、法定上の使用期限40年【注】を越えてこの原子炉の稼働延長を認めた。1号炉の危険性を指摘する声があり、それを受けて東電側が、重要な機器に対する適切な検査を怠っていたと認めたにもかかわらず。

【注】:日本では、原子力発電所の「寿命」を定めた法律はない。原子力発電所の寿命はどれくらいですか?(東京電力
http://www.tepco.co.jp/nu/qa/qa15-j.html
原子炉の寿命は何年ですか。(経済産業省原子力のページ、リンク切れにつき、Internet Archive Wayback Machine より)http://web.archive.org/web/20041024042727/http://www.atom.meti.go.jp/siraberu/qa/00/anzen/10-041.html
現状では、運転開始から30年以降、10年ごとに、原子炉設置者が経年劣化に関する技術的な評価をおこない、長期保守管理方針を策定することが定められている。(「実用発電用原子炉の設置、運転等に関する規則」第十一条の二)
参考:
東京電力株式会社福島第一原子力発電所1号炉の高経年化技術評価書の審査結果及び長期保守管理方針に係る保安規定の変更認可について(原子力安全・保安院http://www.meti.go.jp/press/20110207001/20110207001.pdf


過去の安全管理上の違反行為はごく軽い罰しか受けなかった。このため、原子力関係者は、安全性向上より自分たちの利害を守ることに関心があるという疑念が強められた。2002年に東電の隠蔽事件がようやく明らかになると、会長と社長が辞任したものの、結局は顧問として東電に残った。降格となった重役たちもいたが、東電の関連企業に移っている。また、隠蔽にかかわったとしてごくわずかな減俸処分となった者もいた。【注】そして、一時的な運転停止と修理の後、東電は福島第一原発の運転を再開したのだった。
【注】東京電力「人事措置について」(2002年9月17日)http://www.tepco.co.jp/cc/press/betu02_j/images/0917b-j.html

サンフランシスコ・ベイエリアの自宅で電話インタビューに対し、スガオカ氏はこう述べた。「原子力発電は支持しますが、完全な情報公開をおこなうべきです。」


<アマクダリ>原発関連企業と政府関係者をつなぐ癒着の構造を日本では最近「原子力村」と呼んでいる。発電所の下に活断層が見つかったり、津波の想定規模が見直されたり、安全上の問題が繰り返し隠蔽されたりしてきたにもかかわらず、原電を推進しようとする体制側の思惑の根底には、不透明で癒着した利害関係があることを、「村」という表現は暗示している。
ウィキペディア原子力村」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E6%9D%91

(この「原子力村」では)日本の村ならどこでも見られるように、考えの近い者同士――原子力産業幹部、官僚、政治家、学者――が、原発建設プロジェクト、高給ポスト、政治上・財政上・規制上の支援などを互いに与えあうことで利益を得てきた。原子力発電の安全性をあからさまに疑う人間は村八分となり、昇進や支援を得られなくなるのだ。

与党民主党の中で以前から原子力産業を批判してきた数少ない代議士の一人、大島九州男(くすお)氏によれば、安全より利潤に目を向ける原発業界の改革を議論するだけでも、ごく最近までは政治的自殺行為に等しかったという。

「タブーだと思って、誰も触れようとはしなかったんです」と大島氏は述べる。その上で、自分は原子力関連団体でなく、仏教系の新宗教団体として最大のものの一つ、立正佼成会の支持を受けているのだ、と付け加えた。

「結局、お金の問題です」と彼は言い足した。

批判者たちによれば、福島第一でも他の場所でも、安全上の問題は共通の原因、つまり、監視役[原子力安全・保安院]が「原子力村」の住人にすぎないという点に由来している。

原子力安全・保安院は、原発の安全規制を任務としているにもかかわらず、原子力利用の推進を担当する経済産業省の一機関である。職員たちは、長いキャリアの間に、原子力の規制部門と推進部門の間を行ったり来たりする。かくして、原発産業の牽引役と監督役を隔てる境界はかき消されることになる。

影響力のある役人たちが原子力産業(とその発展)に肩入れするのは、日本語で「空から降りてくること」を意味する<アマクダリ>のためだ。アマクダリは、日本の主幹産業では広く見られる慣習で、やや年配、おおよそ50歳代の官僚たちが、かつて自分たちの監督した企業で気楽な職にありつくことを可能にする。

原子力産業を厳しく批判する団体の一つ、日本共産党がまとめた資料によれば、1960年代に日本で最初の原発が計画されたころから、原発推進官庁[旧・通商産業省/現・経済産業省]の幹部たちは何代にもわたって国内10社の電力企業で役員のポストについてきた。日本の省庁と電力会社の明瞭なヒエラルキーを反映する形で、省トップクラスの幹部らは東京電力天下りし、ランクが下がるにつれてより規模の小さい電力会社に再就職している。【注】
【注】「東電副社長はエネ庁幹部の指定席」(しんぶん赤旗 2011年4月10日付)http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2011-04-10/2011041001_02_1.html

東電の場合、1959年【上記の記事によれば、1962年】から2010年までの間、省トップクラスの役人4人が同社副社長をつとめている。一人が退職すると、省内の後輩が、同省の「指定席」と呼ばれる東電副社長のポストを引き継ぐのだ。

一番最近のケースでは、経済産業省の外局である資源エネルギー庁の石田徹長官が、昨年[8月]退職した後、今年初頭[1月1日]に東電の顧問のポストについている。菅直人首相の政府は当初この人事を擁護したが、共産党が1960年代以降の天下り人事の規模を公表すると、態度を翻した。以前なら、石田氏は今年の後半ごろ副社長になっていたかもしれないが、先週になって辞職を余儀なくされた。

東電の広報担当者長谷川和弘氏は、この人事が天下りではないとし、同社は最良の人材を選任しているだけだと付け加えた。同社と官僚・政治家とのつながりについて幹部のインタビューを申し入れると、東電は拒否した。

より低いランクの役人も、電力会社がもつ無数の関連企業や、経済産業省や電力会社に近い諮問機関で、報酬は減るにせよ同様の職についている。

「こういう馴れ合いのために、原子力安全・保安院は結局のところ、原子力発電の利権にむらがる集団の一員になっているのです」と、長年にわたり原子力業界を監視してきた原子力の専門家でもある共産党の代議士、吉井英勝氏は述べる。

なれあいの関係は[省庁から企業へという天下りとは]逆の向きにも結ばれている。あまり知られていないが、アマアガリ、つまり、「空へ昇っていくこと」という意味の慣習もある。原子力安全・保安院をサポートする監督を任務とする委員会は、常勤の専門技術者を欠いているため、こうした委員会では原子力産業関連企業の退職者や現役社員に大きく依存しているのだ。こうした人々が、もともとの雇い主である電力会社を批判するとは考えにくい。


(trad. SS)

(この項続く)


6.11 脱原発100万人アクション! 全国各地!福島原発震災から3ヶ月。
今なお放射能の放出は続いています。全国各地域の人々とともに、6月11日に脱原発を求める100万人アクションを呼びかけます。
今こそ脱原発へ!!  http://nonukes.jp/wordpress/

フクシマ―毒された谷で(下)


http://abonnes.lemonde.fr/cgi-bin/ACHATS/ARCHIVES/archives.cgi?ID=3b6995b524a4697a3d7502072847fc27762f5ab82a0f476b


Article paru dans l'édition du 26.05.11ル・モンド 2011年5月26日


(承前)


実を言えば、まさに避難が必要なそのときに普段より多くの人が集まっていたこの地域で、健康への被害がこれ以上破滅的なものにならなくてすんだのは、ひょっとするとひとつの偶然のおかげだったかもしれない。その偶然、唯一の幸福な偶然とは、冬である。飯館の不幸を招いた雪は、おそらくは住民にとっては救いでもあったのだ。「この季節には、野菜畑にはなんにもないから」とカンノ・ツグミは言う。だから、誰も高度に放射能汚染された野菜をとりに行ったりはしなかったし、それを食べてきわめて大きい危険に身をさらすこともなかった。牛小屋にとどまっていた雌牛たちは最大級の放射線からは守られたし、その雌牛たちが食べたのは去年刈り取られた干し草ばかりだった。


とはいえ、当局からまったく何の指示も受けてはいなかった住民たちの多くは、家の外の瓶に入れてあったハクサイや、土の中深くに根を下ろしているので、ヨードからは守られていたと思しきゴボウを食べ続けていたと言った。また、多くの住民たちは、山の泉から汲んできた水を飲み続けていたという。


もし、原発事故が最近になってから、つまり、この美しい地方一帯に放射能をさんさんと降り注ぎ、毒をまき散らす春になって起こっていたら、いったいどんなことになっていたのだろう? 人気のなくなった道沿いの、もはや住む人も避難して閉ざされたままの家々の庭には、花が咲き乱れている。まだ居残っている住民たちには魚をとることは禁じられているが、村人たちは、健康への危険を無視して、タケノコやキノコを採りに行っている者も近所にはいるのではないかと言う。まるで、今後長いあいだ誰もいなくなってしまうはずのこの地方の習慣を、せめて残りわずかでも守ろうとするかのように。


すでに、避難計画の対象となる飯館と近隣の村の住民たちの半分以上は、自分たち自身の手段でこの土地から出て行った。5月15日には、最後の子供と妊婦が避難している。5月31日まで待って、どうなるか様子を見ようという者もいれば、いずれにせよ日中は村に帰ってくることができる者もいる。彼らの勤め先の会社がすぐには移転しないからだ。この一帯が、福島の原発周辺の一帯と同じように、完全に閉鎖されてしまうのかどうかは、実のところ誰も知らないのだ。


事実、当局はこの点に関して曖昧である。まるで、これまでかくも大きな危険を冒させてきた住民たちに、いまさら無理強いは出来ないとでもいうように。戸惑い気味のこの曖昧さは、責任の所在が村と県と国の間ではっきりしないことからも来る。前例のないこの非常事態にあってはもはや、誰が何を決断するのか知っていると自信を持って言えるような人物は一人もいない。この曖昧さはまた、政府と東京電力の間の財政的な駆け引きからも来る。政府は東京電力に、今回の住民の避難と、農地の閉鎖と、企業の移転の費用のすべてを直接負わせようとしているからだ。


いまのところ、カンノ夫妻は損害賠償として、1万ユーロ(約115万円)相当を受けとっただけである。これに住宅補助として、月々600ユーロ(約6万9千円)ほどが加わることになっている。「東京電力は私たちの生活をむちゃくちゃにしたあげく、今度は損害を賠償するのも嫌がってるんです」。そのカンノ・ツグミは「もう怒りも恐怖も通り越した」と言う。夫妻は原発から60kmの福島市のアパートに移り住む予定だが、そこから村に帰ることができるのかははっきりしないままだ。


飯館でももう少し南のもっとも汚染のひどい地区と、緊急時避難準備区域の中にある浪江では、道路の状況は、すでに原発のまわりの立ち入り禁止区域周辺のような様相を呈している。何km 走ってもひとっ子一人見当たらない。ガイガーカウンターを注視しているせいで、周囲の森の緑の変化を楽しめないのが心残りだった。ただ、空になった家々だけが、自然の風景とは無縁のドラマを語っている。


路上に立てられた看板が、じきに通行を制限し始めた。小さな家の周囲に立てられたそんな看板を、アマノ・ユミコは見て見ぬふりをした。ちょうど、この場所を離れずにいた最初の日から、自分がどれほどの量の放射能を浴びたのかに関心がないのと同様に。霧と鮭で知られる請戸川の流れるこの谷間の奥で、大気中の放射能は年間150ミリシーベルトを越えている。80歳を超えた老女の小さな家の雨樋の下では、年間1,2シーベルトが観測された。


この数値によるなら、手つかずのままのここの農地にも、きちんと整えられた庭にも、人が寄りつくことは当分の間出来ないだろう。そのためには、津波による惨状を呈している海岸線の村々を再建するよりもずっと長い時間がかかるはずだ。それでもアマノ・ユミコは、自分の犬と、猫たちと、近所の人たちが捨てて行った家畜とともに、期限の日までここに残ろうと思っている。そう決心するにあたって、彼女にはひとつ考えがあった。「これまでさんざん良い暮らしをしてきたんだ。その暮らしのためにこんな酷いことになったからって、逃げるわけにはいかない。」


浴びた放射能の量ではひけをとらない長瀞では、スギハラ・ヨシトモが、早くも郷愁の思いに駆られていた。彼はあらゆる場所を、もはや過ぎ去ってしまったこの生活の最後の一瞬一瞬を、写真に撮ることにしたのだ。彼は知っている。自分がそうとは知らずに大きな危険を冒していた数日間のあとには、帰りたくても帰れない故郷を思ってほぞを噛む時間が、何年も続くだろう、と。


Jérôme Fenoglioジェローム・フェノニオ


(trad. KO)


6.11 脱原発100万人アクション!6月11日は、福島原発震災から3ヶ月。
今なお放射能の放出は続いています。私たちは、人や自然を傷つける電気はいりません。全国各地域の人々とともに、6月11日に脱原発を求める100万人アクションを呼びかけます。6月11日は、声をあげましょう!今こそ脱原発へ!!  http://nonukes.jp/wordpress/
黙ってられない!声を上げよう!!

フクシマ―毒された谷で(上)


http://abonnes.lemonde.fr/cgi-bin/ACHATS/ARCHIVES/archives.cgi?ID=3b6995b524a4697a3d7502072847fc27762f5ab82a0f476b


Article paru dans l'édition du 26.05.11ル・モンド 2011年5月26日


事故を起こした原発の北西部、強制的避難区域からも緊急時避難準備区域からも外れた土地が、放射能汚染されていた。十分な情報の与えられないまま、そこの住民たちは危険な放射能に曝されたのだ。われわれの特派員は、ガイガーカウンターを手にそれを実証することになった。

彼らは急に知りたくなったのだ。まるで何週間もの間、目に見えない危険にとりまかれていたことを知らずにいたのに憤慨したように、カンノ・ツグミとケンジは、ガイガーカウンターを手にやって来た初めての来訪者に、福島県・飯館の農地の放射能を測ってくれと言った。ジャーナリストであろうが、専門家ではなかろうが、かまわなかったのだ。二人は放射能探知機を、未来の廃墟に向かって差し出した。いまや消え去ろうとしている日常の廃墟である。立ち去らなければならない家の中。もう食べることのできない野菜の畑。干涸びた水田。それから、二人が一緒に連れて行くことになっている犬の足までも。

機械はとても安心出来ない数値を弾き出したあと、警報を発し始め、それに恐怖の叫び声がかぶさった。ちょうどその雨樋の下で、5月21日土曜日、草は毎時80マイクロシーベルト放射線を発していた。この放射線量がかわらぬまま、それに一年間曝されることになれば、700ミリシーベルトを浴びることになる。それ以上超えると発ガンのリスクが高まるとされる閾は、年間100ミリシーベルトなのに。カンノ家の農地のあちこちで、チェルノブイリ原発の周囲の地帯にも匹敵するような放射線量が見られた。流れ込んだ雨水が、飯館村とその住民たちのドラマを凝縮したのだ。

とはいえ、カンノ家の土地は、3月11日の東北地方の地震津波で破損した福島第一原発からは45kmの地点にある。最近国内でも最も美しい景勝地として指定されたばかりの山あいの飯舘の全体は、事故を起こした原子炉を中心に同心円状に引かれた線の外側に位置しているのだ。最初は20kmの円周が強制的避難区域を縁取っていた。そして30kmの円周が、緊急時避難準備区域と呼ばれるものにあたる。

しかし、放射能は当局がコンパスを使って引いた線の内側にとどまってはくれなかった。3月16日と17日には、原子炉の爆発で放出された粒子は風に乗って内陸に向かった。その途中、悪性の原素は雨によって、あるいはいっそう悪いことに、この両日降りしきっていた雪によって、地表へ、家々の屋根へと降りかかった。

今日この地方では、この空の水分を集めたものはすべて、ガイガーカウンターを猛り狂わせる。雨樋だけでなく、側溝や乾いた泥などがそうだ。これらはいずれも、この地方に降ったものの激しさを凝縮して示す痕跡である。しかしその間、住民たちのほうは誰も、その危険を知らされていなかったのだ。

「何が起こったのか、どれほどのリスクがあるのかを知らされ、この土地から出て行くように言われたのは、何週間もしてからだったのです。」カンノ・ツグミは、飯舘村でインタビューしたほかの人たちと同様に、そう言った。「雪が降り続けた何日間かの間、私たちは誰にも会いませんでしたし、なんの助言ももらいませんでした。全国放送さえなかったんです。電気が切れてたんですから。」

実際、最初の警告は、この汚染から二週間して、さまざまなNGOの活動から発せられた。毒されたこの一帯の汚染地域とその危険性は、4月10日になって、アメリカ人による計測に基づいて、フランスの放射線防護原子力安全研究所(IRSN)の専門家が地図を作製するまで、明らかにされなかったのだ。

日本の政府が独自の資料を公表したのは、ようやく4月24日になってからのことだった。そこに添えられた数値は、危険の程度が、正確に言って、それまで想定されてきたよりもずっと深刻だったことを示していた。避難区域の円周内に、相対的に被害の少ない地帯がある一方で、北西の一帯は反対に極めて高い放射線量を示していた。浪江、葛尾、飯館の大部分は、原発で働く労働者に許容される上限とされる、年間20ミリシーベルトをはるかに超える放射線を浴びていた。ところが、上述の一帯では、それ以上の数値になれば健康にリスクがあるとされることで名高い、年間100ミリシーベルトの閾をはるかに超える場所も多々見られた。「これらの情報が示すのは、場所によっては、放射能汚染は、チェルノブイリと同程度にまで及んだということです。」IRSNの対人放射線防護部部長、パトリック・グルムロンはそうコメントしている。

どうして日本の当局は、こうした数値を認め、5月31日までに現地を退去すべしという決定を下すのに、これほどまでに時間をかけたのだろうか。しかも当局はこうした数値を知っていたはずなのである。その証拠は、飯館の道路沿いに掲げられている。それぞれの集落には退去を命ずる指示とともに、最近立てられた、地区の放射線量をまとめた掲示板がある。そのうち、もっとも被害のひどい集落の一つである長瀞地区のものは3月17日からあり、そこに記されている数値はきわめて雄弁だ。3月17日には毎時95マイクロシーベルト(すなわち年830ミリシーベルト)、その翌日は毎時52マイクロシーベルト、そして3月20日にはまたしても毎時60マイクロシーベルト

これらの谷が死の微粒子に侵されていることは、既に察知され、計測されていたのだ。しかし、それによって緊急の決断が下されることはなかった。住民たちには、避難勧告も、待機勧告も、注意も、与えられなかったのだ。まるで管轄当局は、あとになって事態を隠していたと批判されることだけを恐れていたかのように。

データは毎日公開されてはいたが、それが公開されたのは、当の住民たちが簡単に見に行けるような場所ではなかった。電気が止まっていたのだとすればなおさらのことだ。住民たちは、優秀な外国の専門家であってもわけがわからなくなるような、無味乾燥な数値の波に飲み込まれてしまっていた。まるで責任者たちは、自分たちが立てたいかにもお粗末な原発事故対策プランによれば、リスクなどなかったはずのこの一帯については、「毒を薄める」ことだけを望んでいたかのように。

しかし、その場にいた村人にとっては、リスクを知らずに過ごしたこれらの日々は、もっとも大きな危険に曝された日々でもあった。今日、線量計が示しているのは、セシウム137が降ったことの影響に過ぎない。放射能を30年かけて半減させるこの原素の存在は、もっとも大きな被害を受けた地帯を長く苦しめることになるだろう。しかし、災害のあとの数日間、雪とともに屋根や農地に降り積もったのは、とりわけヨード131であった。この粒子は、たしかにセシウムに比べればずっと早く消滅してしまう(その半減期は一週間である)とはいえ、ずっと大量で悪性の高いものだ。このヨード131こそ、チェルノブイリの災厄のあとで確認された、数千件の甲状腺がんの原因となったのである。

とりわけ子供や妊婦にとっては危険の高い、このヨード131の影響は、放射性のないヨードの錠剤を飲むことで抑えられる。しかし、この飯館と周辺の市町村では、そのヨードの錠剤が配布されることもなかった。

しかし、いっそう悪いのは、毒を含んだ雪が降り続いたあいだ、この山あいの集落にいたのは、ガソリンが切れて、動くに動けなかった8000人の住民の大多数ばかりではなかったことだ。そこには、津波によって襲われた沿岸部、とりわけ南相馬から、多くの避難民も押し寄せていた。そのなかには、家には被害がなかったものの、次々に原発で起こった巨大な爆発音を耳にして、わざわざここまで逃げてきた人たちもいたのである。その避難民の数が全部でどのくらいになるのか。現場でも誰もはっきりとしたことは分かっていない。いくつもの家庭で、たくさんの親類縁者を受け入れていたからだ。

カンノの農場では、普段は夫婦とツグミの両親の4人―そのうち両親は既に避難している―で生活しているところに、20人が肩を寄せあった。「遠縁のうちには、3歳の女の子と妊娠中の女性もおりました」とツグミはおののいて言う。13日にやって来たこの親類縁者たちは、19日にはあちこちの避難所に向けて出発して行った。ということは、彼らはヨード131の悪性がもっとも強かった一時期に、ずっと飯館にいたことになる。沿岸部から来たほかの被災者たちと同様に。

「村の中心には、避難してきた人たちが1400人くらいおりました。私たちは、彼らに食べ物を運ぼうと、あの雪の中、一日中路上で過ごしていたのです」。村の南部、長瀞部落の長であるスギハラ・ヨシトモは、苦々しげにそう回顧する。彼の農地の周辺では、大気中の放射性は、今日、年間105ミリシーベルトにものぼる。あるNGOは、彼の所有地を汚染の測定のための一ケースとしてとりあげた。彼の家の庭の表土はめくられ、屋根は水の噴射で洗浄され、もっとも被曝量の多かった樹々の枝は切り落とされた。

計測が終わったあと、NGOの研究者たちは高い放射能を帯びたこれらのものを袋に詰めて、森を縁取る木々の間に置いて行った。その袋をどこに持って行くこともできなかったからだ。これらの廃棄物は、プラスティックの袋の中に入れられてもなお、ガイガーカウンターの警報を鳴らすほどだ。

「私はこの原発災害のモルモットになってしまいました」、老人はそう言って、常時胸に下げている放射線量計を示しながら微笑んだ。彼は、退去の期限が過ぎたあとも、自分の農場に帰ってきたいと思っている。彼が所有している六頭の雌牛のうち一頭は妊娠していて、六月中旬の出産までは移動させるわけにはいかなさそうなのだ。「どっちにしろ、最初の何週間かで浴びたもののことを考えれば、もう怖いものなんかありませんよ。」


(この項続く)


Jérôme Fenoglioジェローム・フェノニオ

(trad. KO)


6.11 脱原発100万人アクション!6月11日は、福島原発震災から3ヶ月。
今なお放射能の放出は続いています。私たちは、人や自然を傷つける電気はいりません。全国各地域の人々とともに、6月11日に脱原発を求める100万人アクションを呼びかけます。6月11日は、声をあげましょう!今こそ脱原発へ!!  http://nonukes.jp/wordpress/
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