フクシマ―毒された谷で(下)


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Article paru dans l'édition du 26.05.11ル・モンド 2011年5月26日


(承前)


実を言えば、まさに避難が必要なそのときに普段より多くの人が集まっていたこの地域で、健康への被害がこれ以上破滅的なものにならなくてすんだのは、ひょっとするとひとつの偶然のおかげだったかもしれない。その偶然、唯一の幸福な偶然とは、冬である。飯館の不幸を招いた雪は、おそらくは住民にとっては救いでもあったのだ。「この季節には、野菜畑にはなんにもないから」とカンノ・ツグミは言う。だから、誰も高度に放射能汚染された野菜をとりに行ったりはしなかったし、それを食べてきわめて大きい危険に身をさらすこともなかった。牛小屋にとどまっていた雌牛たちは最大級の放射線からは守られたし、その雌牛たちが食べたのは去年刈り取られた干し草ばかりだった。


とはいえ、当局からまったく何の指示も受けてはいなかった住民たちの多くは、家の外の瓶に入れてあったハクサイや、土の中深くに根を下ろしているので、ヨードからは守られていたと思しきゴボウを食べ続けていたと言った。また、多くの住民たちは、山の泉から汲んできた水を飲み続けていたという。


もし、原発事故が最近になってから、つまり、この美しい地方一帯に放射能をさんさんと降り注ぎ、毒をまき散らす春になって起こっていたら、いったいどんなことになっていたのだろう? 人気のなくなった道沿いの、もはや住む人も避難して閉ざされたままの家々の庭には、花が咲き乱れている。まだ居残っている住民たちには魚をとることは禁じられているが、村人たちは、健康への危険を無視して、タケノコやキノコを採りに行っている者も近所にはいるのではないかと言う。まるで、今後長いあいだ誰もいなくなってしまうはずのこの地方の習慣を、せめて残りわずかでも守ろうとするかのように。


すでに、避難計画の対象となる飯館と近隣の村の住民たちの半分以上は、自分たち自身の手段でこの土地から出て行った。5月15日には、最後の子供と妊婦が避難している。5月31日まで待って、どうなるか様子を見ようという者もいれば、いずれにせよ日中は村に帰ってくることができる者もいる。彼らの勤め先の会社がすぐには移転しないからだ。この一帯が、福島の原発周辺の一帯と同じように、完全に閉鎖されてしまうのかどうかは、実のところ誰も知らないのだ。


事実、当局はこの点に関して曖昧である。まるで、これまでかくも大きな危険を冒させてきた住民たちに、いまさら無理強いは出来ないとでもいうように。戸惑い気味のこの曖昧さは、責任の所在が村と県と国の間ではっきりしないことからも来る。前例のないこの非常事態にあってはもはや、誰が何を決断するのか知っていると自信を持って言えるような人物は一人もいない。この曖昧さはまた、政府と東京電力の間の財政的な駆け引きからも来る。政府は東京電力に、今回の住民の避難と、農地の閉鎖と、企業の移転の費用のすべてを直接負わせようとしているからだ。


いまのところ、カンノ夫妻は損害賠償として、1万ユーロ(約115万円)相当を受けとっただけである。これに住宅補助として、月々600ユーロ(約6万9千円)ほどが加わることになっている。「東京電力は私たちの生活をむちゃくちゃにしたあげく、今度は損害を賠償するのも嫌がってるんです」。そのカンノ・ツグミは「もう怒りも恐怖も通り越した」と言う。夫妻は原発から60kmの福島市のアパートに移り住む予定だが、そこから村に帰ることができるのかははっきりしないままだ。


飯館でももう少し南のもっとも汚染のひどい地区と、緊急時避難準備区域の中にある浪江では、道路の状況は、すでに原発のまわりの立ち入り禁止区域周辺のような様相を呈している。何km 走ってもひとっ子一人見当たらない。ガイガーカウンターを注視しているせいで、周囲の森の緑の変化を楽しめないのが心残りだった。ただ、空になった家々だけが、自然の風景とは無縁のドラマを語っている。


路上に立てられた看板が、じきに通行を制限し始めた。小さな家の周囲に立てられたそんな看板を、アマノ・ユミコは見て見ぬふりをした。ちょうど、この場所を離れずにいた最初の日から、自分がどれほどの量の放射能を浴びたのかに関心がないのと同様に。霧と鮭で知られる請戸川の流れるこの谷間の奥で、大気中の放射能は年間150ミリシーベルトを越えている。80歳を超えた老女の小さな家の雨樋の下では、年間1,2シーベルトが観測された。


この数値によるなら、手つかずのままのここの農地にも、きちんと整えられた庭にも、人が寄りつくことは当分の間出来ないだろう。そのためには、津波による惨状を呈している海岸線の村々を再建するよりもずっと長い時間がかかるはずだ。それでもアマノ・ユミコは、自分の犬と、猫たちと、近所の人たちが捨てて行った家畜とともに、期限の日までここに残ろうと思っている。そう決心するにあたって、彼女にはひとつ考えがあった。「これまでさんざん良い暮らしをしてきたんだ。その暮らしのためにこんな酷いことになったからって、逃げるわけにはいかない。」


浴びた放射能の量ではひけをとらない長瀞では、スギハラ・ヨシトモが、早くも郷愁の思いに駆られていた。彼はあらゆる場所を、もはや過ぎ去ってしまったこの生活の最後の一瞬一瞬を、写真に撮ることにしたのだ。彼は知っている。自分がそうとは知らずに大きな危険を冒していた数日間のあとには、帰りたくても帰れない故郷を思ってほぞを噛む時間が、何年も続くだろう、と。


Jérôme Fenoglioジェローム・フェノニオ


(trad. KO)


6.11 脱原発100万人アクション!6月11日は、福島原発震災から3ヶ月。
今なお放射能の放出は続いています。私たちは、人や自然を傷つける電気はいりません。全国各地域の人々とともに、6月11日に脱原発を求める100万人アクションを呼びかけます。6月11日は、声をあげましょう!今こそ脱原発へ!!  http://nonukes.jp/wordpress/
黙ってられない!声を上げよう!!