フクシマ―毒された谷で(上)


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Article paru dans l'édition du 26.05.11ル・モンド 2011年5月26日


事故を起こした原発の北西部、強制的避難区域からも緊急時避難準備区域からも外れた土地が、放射能汚染されていた。十分な情報の与えられないまま、そこの住民たちは危険な放射能に曝されたのだ。われわれの特派員は、ガイガーカウンターを手にそれを実証することになった。

彼らは急に知りたくなったのだ。まるで何週間もの間、目に見えない危険にとりまかれていたことを知らずにいたのに憤慨したように、カンノ・ツグミとケンジは、ガイガーカウンターを手にやって来た初めての来訪者に、福島県・飯館の農地の放射能を測ってくれと言った。ジャーナリストであろうが、専門家ではなかろうが、かまわなかったのだ。二人は放射能探知機を、未来の廃墟に向かって差し出した。いまや消え去ろうとしている日常の廃墟である。立ち去らなければならない家の中。もう食べることのできない野菜の畑。干涸びた水田。それから、二人が一緒に連れて行くことになっている犬の足までも。

機械はとても安心出来ない数値を弾き出したあと、警報を発し始め、それに恐怖の叫び声がかぶさった。ちょうどその雨樋の下で、5月21日土曜日、草は毎時80マイクロシーベルト放射線を発していた。この放射線量がかわらぬまま、それに一年間曝されることになれば、700ミリシーベルトを浴びることになる。それ以上超えると発ガンのリスクが高まるとされる閾は、年間100ミリシーベルトなのに。カンノ家の農地のあちこちで、チェルノブイリ原発の周囲の地帯にも匹敵するような放射線量が見られた。流れ込んだ雨水が、飯館村とその住民たちのドラマを凝縮したのだ。

とはいえ、カンノ家の土地は、3月11日の東北地方の地震津波で破損した福島第一原発からは45kmの地点にある。最近国内でも最も美しい景勝地として指定されたばかりの山あいの飯舘の全体は、事故を起こした原子炉を中心に同心円状に引かれた線の外側に位置しているのだ。最初は20kmの円周が強制的避難区域を縁取っていた。そして30kmの円周が、緊急時避難準備区域と呼ばれるものにあたる。

しかし、放射能は当局がコンパスを使って引いた線の内側にとどまってはくれなかった。3月16日と17日には、原子炉の爆発で放出された粒子は風に乗って内陸に向かった。その途中、悪性の原素は雨によって、あるいはいっそう悪いことに、この両日降りしきっていた雪によって、地表へ、家々の屋根へと降りかかった。

今日この地方では、この空の水分を集めたものはすべて、ガイガーカウンターを猛り狂わせる。雨樋だけでなく、側溝や乾いた泥などがそうだ。これらはいずれも、この地方に降ったものの激しさを凝縮して示す痕跡である。しかしその間、住民たちのほうは誰も、その危険を知らされていなかったのだ。

「何が起こったのか、どれほどのリスクがあるのかを知らされ、この土地から出て行くように言われたのは、何週間もしてからだったのです。」カンノ・ツグミは、飯舘村でインタビューしたほかの人たちと同様に、そう言った。「雪が降り続けた何日間かの間、私たちは誰にも会いませんでしたし、なんの助言ももらいませんでした。全国放送さえなかったんです。電気が切れてたんですから。」

実際、最初の警告は、この汚染から二週間して、さまざまなNGOの活動から発せられた。毒されたこの一帯の汚染地域とその危険性は、4月10日になって、アメリカ人による計測に基づいて、フランスの放射線防護原子力安全研究所(IRSN)の専門家が地図を作製するまで、明らかにされなかったのだ。

日本の政府が独自の資料を公表したのは、ようやく4月24日になってからのことだった。そこに添えられた数値は、危険の程度が、正確に言って、それまで想定されてきたよりもずっと深刻だったことを示していた。避難区域の円周内に、相対的に被害の少ない地帯がある一方で、北西の一帯は反対に極めて高い放射線量を示していた。浪江、葛尾、飯館の大部分は、原発で働く労働者に許容される上限とされる、年間20ミリシーベルトをはるかに超える放射線を浴びていた。ところが、上述の一帯では、それ以上の数値になれば健康にリスクがあるとされることで名高い、年間100ミリシーベルトの閾をはるかに超える場所も多々見られた。「これらの情報が示すのは、場所によっては、放射能汚染は、チェルノブイリと同程度にまで及んだということです。」IRSNの対人放射線防護部部長、パトリック・グルムロンはそうコメントしている。

どうして日本の当局は、こうした数値を認め、5月31日までに現地を退去すべしという決定を下すのに、これほどまでに時間をかけたのだろうか。しかも当局はこうした数値を知っていたはずなのである。その証拠は、飯館の道路沿いに掲げられている。それぞれの集落には退去を命ずる指示とともに、最近立てられた、地区の放射線量をまとめた掲示板がある。そのうち、もっとも被害のひどい集落の一つである長瀞地区のものは3月17日からあり、そこに記されている数値はきわめて雄弁だ。3月17日には毎時95マイクロシーベルト(すなわち年830ミリシーベルト)、その翌日は毎時52マイクロシーベルト、そして3月20日にはまたしても毎時60マイクロシーベルト

これらの谷が死の微粒子に侵されていることは、既に察知され、計測されていたのだ。しかし、それによって緊急の決断が下されることはなかった。住民たちには、避難勧告も、待機勧告も、注意も、与えられなかったのだ。まるで管轄当局は、あとになって事態を隠していたと批判されることだけを恐れていたかのように。

データは毎日公開されてはいたが、それが公開されたのは、当の住民たちが簡単に見に行けるような場所ではなかった。電気が止まっていたのだとすればなおさらのことだ。住民たちは、優秀な外国の専門家であってもわけがわからなくなるような、無味乾燥な数値の波に飲み込まれてしまっていた。まるで責任者たちは、自分たちが立てたいかにもお粗末な原発事故対策プランによれば、リスクなどなかったはずのこの一帯については、「毒を薄める」ことだけを望んでいたかのように。

しかし、その場にいた村人にとっては、リスクを知らずに過ごしたこれらの日々は、もっとも大きな危険に曝された日々でもあった。今日、線量計が示しているのは、セシウム137が降ったことの影響に過ぎない。放射能を30年かけて半減させるこの原素の存在は、もっとも大きな被害を受けた地帯を長く苦しめることになるだろう。しかし、災害のあとの数日間、雪とともに屋根や農地に降り積もったのは、とりわけヨード131であった。この粒子は、たしかにセシウムに比べればずっと早く消滅してしまう(その半減期は一週間である)とはいえ、ずっと大量で悪性の高いものだ。このヨード131こそ、チェルノブイリの災厄のあとで確認された、数千件の甲状腺がんの原因となったのである。

とりわけ子供や妊婦にとっては危険の高い、このヨード131の影響は、放射性のないヨードの錠剤を飲むことで抑えられる。しかし、この飯館と周辺の市町村では、そのヨードの錠剤が配布されることもなかった。

しかし、いっそう悪いのは、毒を含んだ雪が降り続いたあいだ、この山あいの集落にいたのは、ガソリンが切れて、動くに動けなかった8000人の住民の大多数ばかりではなかったことだ。そこには、津波によって襲われた沿岸部、とりわけ南相馬から、多くの避難民も押し寄せていた。そのなかには、家には被害がなかったものの、次々に原発で起こった巨大な爆発音を耳にして、わざわざここまで逃げてきた人たちもいたのである。その避難民の数が全部でどのくらいになるのか。現場でも誰もはっきりとしたことは分かっていない。いくつもの家庭で、たくさんの親類縁者を受け入れていたからだ。

カンノの農場では、普段は夫婦とツグミの両親の4人―そのうち両親は既に避難している―で生活しているところに、20人が肩を寄せあった。「遠縁のうちには、3歳の女の子と妊娠中の女性もおりました」とツグミはおののいて言う。13日にやって来たこの親類縁者たちは、19日にはあちこちの避難所に向けて出発して行った。ということは、彼らはヨード131の悪性がもっとも強かった一時期に、ずっと飯館にいたことになる。沿岸部から来たほかの被災者たちと同様に。

「村の中心には、避難してきた人たちが1400人くらいおりました。私たちは、彼らに食べ物を運ぼうと、あの雪の中、一日中路上で過ごしていたのです」。村の南部、長瀞部落の長であるスギハラ・ヨシトモは、苦々しげにそう回顧する。彼の農地の周辺では、大気中の放射性は、今日、年間105ミリシーベルトにものぼる。あるNGOは、彼の所有地を汚染の測定のための一ケースとしてとりあげた。彼の家の庭の表土はめくられ、屋根は水の噴射で洗浄され、もっとも被曝量の多かった樹々の枝は切り落とされた。

計測が終わったあと、NGOの研究者たちは高い放射能を帯びたこれらのものを袋に詰めて、森を縁取る木々の間に置いて行った。その袋をどこに持って行くこともできなかったからだ。これらの廃棄物は、プラスティックの袋の中に入れられてもなお、ガイガーカウンターの警報を鳴らすほどだ。

「私はこの原発災害のモルモットになってしまいました」、老人はそう言って、常時胸に下げている放射線量計を示しながら微笑んだ。彼は、退去の期限が過ぎたあとも、自分の農場に帰ってきたいと思っている。彼が所有している六頭の雌牛のうち一頭は妊娠していて、六月中旬の出産までは移動させるわけにはいかなさそうなのだ。「どっちにしろ、最初の何週間かで浴びたもののことを考えれば、もう怖いものなんかありませんよ。」


(この項続く)


Jérôme Fenoglioジェローム・フェノニオ

(trad. KO)


6.11 脱原発100万人アクション!6月11日は、福島原発震災から3ヶ月。
今なお放射能の放出は続いています。私たちは、人や自然を傷つける電気はいりません。全国各地域の人々とともに、6月11日に脱原発を求める100万人アクションを呼びかけます。6月11日は、声をあげましょう!今こそ脱原発へ!!  http://nonukes.jp/wordpress/
黙ってられない!声を上げよう!!