反原発運動の覚醒

Le réveil des anti-nucléaires
Libération le 14 avril 2011リベラシオン 2011年4月14日

http://japon.blogs.liberation.fr/magnitude9/2011/04/le-r%C3%A9veil-des-anti-nucl%C3%A9aires.html

Eriko エリコ

原発事故が発生してから、時事通信社の報道には、繰り返しひとりの大学助教が登場した。権威ある京都大学の原子炉実験所助教小出裕章である。この実験所は、原子力施設の安全性を研究する専門施設だ。小出の大学での肩書きを見たとき、私は「きっと若くて優秀な専門家なんだろう」と思った。けれどもじきに、この研究者が想像していたような30代の人物ではなくて、60代の人物だと知った。彼は歳をとってからこの分野の研究を始めたのだろうか? そうではないのだ。彼は1974年以来ずっとこのポストに就いている。1974年以降、まったく昇進なしに。しかし、そんな珍しい大学でのキャリアの理由はすぐに理解できる。40年間、彼は反原発運動を展開してきたからだ。小出は原子力関連の施設の危険性を指摘し、そうした施設の建設に反対する裁判闘争にかかわる人々を支援するために、数冊の本を著している。日本で国家のエネルギー政策に反対することは、困難な闘いばかりではなく、社会的な制裁に直面することも意味する。実際、小出の挑んだ闘争のすべては、原発推進派によってくつがえされていった。彼が反原発運動にかかわり始めた頃、日本列島にたった3基しかなかった原発は、現在では54基にものぼっている。最近の講演で、彼は自分の闘争をこう総括している。「私のたどってきた道は、敗北の歴史です」。

もうひとり、原発推進派にうるさがられている人物がいる。しかし、彼のやりかたはまた小出とは随分異なっている。シンガーソングライターの斉藤和義は、自作の中でも一番有名な歌をアレンジして、反原発の替え歌を歌った。去年、資生堂のコマーシャルソングとして作った「ずっと好きだった」という歌のタイトルをかえて、「ずっとウソだった」として歌い、YouTubeで発表したのだ。この歌の冒頭、「この町を歩けば、蘇る16才」は、「この国を歩けば、原発が54基」に、「ずっと好きだったんだぜ、相変わらず奇麗だな。ホント好きだったんだぜ、ついに言い出せなかったけど」は、「ずっとウソだったんだぜやっぱ、ばれてしまったな。ホント、ウソだったんだぜ、原子力は安全です」にかえられている。4月6日、斉藤が自作の替え歌をひとりで演奏する姿を映した映像がYouTubeにアップされた。彼のディスクの発売元であるビクター・エンターテインメントは、反原発の歌を歌っているのが斉藤本人であると認めたが、「私的に」収録されたこの映像が公表されたのを遺憾なこととして、YouTubeに映像の公開停止を求めた。どんな経緯でこの映像がネット上にアップされたのかはわからないけれど、この映像のコピーはインターネット上で大量に流布した。また、斉藤和義は4月8日のコンサートでもこの「闘争歌」を歌い、そのインターネット上での中継は30000人以上の視聴者を集めたので、一時的にサーバーがパンクして放映が中断されたほどだった。

言うまでもなく、私たちの社会ではこれまで反原発の意志表明は歓迎されてこなかった。俳優の山本太郎Twitter上で告白している。「反対。って言うと、芸能界で仕事干されるんです、御存知でした?でも言ってやります、反対!」メディアが反原発運動にアレルギー反応を示す理由はすぐ分かる。電力会社が大口の広告スポンサーだからだ。今なお、東京電力は、消費者に節電を求める広告を配信しているのである。

とはいえ、日本はどうやら変化しつつあるらしい。福島原発事故の発生まで、きわめて少数派だった反原発運動に多くの人々が加わりつつある。4月10日のデモには主催者発表で15000人が参加した。デモへの参加者が異端視される、この日本という国で。

(trad. AM)



小出裕章http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%87%BA%E8%A3%95%E7%AB%A0
斉藤和義「ずっとウソだった」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9A%E3%81%A3%E3%81%A8%E5%A5%BD%E3%81%8D%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F
山本太郎Twitterhttp://twitter.com/#!/yamamototaro0/status/56387719269593088

原発運動の情報については「福島原発事故情報共同デスク」へhttp://2011shinsai.info/