一人で東電に立ち向かう男

http://www.zeit.de/2011/16/Einer-gegen-Tepco

ツァイト 2011年4月15日、ゲオルク・ブルーメ


≪ゴム長靴にガイガーカウンター:一地方議員が日本の政府と原子力産業に挑戦する≫
いわき/東京: 市議の姿はおおぜいの人の中でほとんど見分けがつかない。もっともそれは、すっかり顔がおおわれているせいでもある。二枚重ねのマスク、全身レインコート、ゴム長靴という出で立ちだ。いわき市小名浜支所、午前9時。34万人の人口を擁するいわき市は、福島原子力発電所付近で最大の都市だ。放射能漏れの続く原子炉まで、ここから45キロ。われわれが佐藤和良(かずよし)市議と会った小名浜支所では、もう人々が忙しく働いている。1階は、復興支援や補償やヨウ素剤を求める人々であふれかえる。


【写真:東京、東電本社前でデモに参加する原発反対派の人々】

ミヤザワさんはセーターを着て、穴のあいたジーンズにピンクのスニーカーを履いている。佐藤市議は彼に、レインコートとゴム長靴をつけるよう勧める。ミヤザワさんとその仲間たちは、路上で一晩明かした。これからすぐに彼らの仕事が始まる。佐藤市議は2つのグループをつくった。一方のグループは、津波被災者の支援作業、もう一方のグループは、原発周囲の避難勧告地域で放射線測定をおこなう。市議は、第1のグループのために小名浜支所の裏手にある倉庫からスコップをもってきて、第2のグループにはガイガーカウンターを渡した。佐藤市議が小型ジープで先導する。その経路は小名浜港一帯を通る。そこでは大きな船が港の岸壁に乗り上げていたり、樹の上に巨大な鳥のように自動車が引っかかっている。付近一帯の住宅地域は津波で壊滅した。普段の面影はあとかたもない。


広島・長崎の被爆者たちの会館で

この3日前の東京で、佐藤市議は、震災後に日本の原発反対派が開いた最初の集会にメインの講演者として参加していた。会場となったのは総評会館、世界中の反原発運動家に知られる、労働組合のための会館だ。ここには広島・長崎の被爆者たちの団体[原水爆禁止日本国民会議原水禁)]も本部をおいている。1980年代まではここで、世界中の放射能汚染の被害者が参加する会議が定期的に開かれていた。その後は、この団体の周囲も静かになっている。広島と長崎の被爆者として活発にかかわった人々は死去した。日本ではやがて彼らのスローガン「核と人類は共存できない」に誰も耳を貸そうとしなくなった。福島の事故が起こった今日、状況は変わっただろうか?
参考: 現地報告:津波原発災害を受けたいわき市の今 http://monsoon.doorblog.jp/archives/51817902.html

その晩、佐藤市議はほぼ満員の会場を前にして話した。300人あまりの聴衆が参加したが、若い人は少ない。その分だけ、頭に白いものの混じった層が多く感じられる。この人々はかつて、ドイツの68年世代と同じように、因襲やベトナム戦争に挑んで結集した世代に属している。日本でこの世代に属する人々は、[年を取っても]髪を染めないことで見分けがつく。佐藤市議も同世代だ。もっとも、彼は57歳で少し若いし、髪も染めているのだが。

1960年代末、まだティーンエージャーだった佐藤市議は、活発に政治運動にコミットしていた両親とともに平和運動に参加した。父親は鉄道職員で、当時最大の鉄道労働組合にいた。母親は教師で、きわめて反核色の強い教職員組合で活動していた。一家は、楢葉町の、福島第二原子力発電所から8キロほど離れたところで暮らしていた。60年代、エネルギー会社の東京電力は、この第二原発と、今日原子力事故が起こっている15キロほど北の第一原発を同時期に建設し始めた[注記:ウィキペディアによれば、第二原発の着工は1970年代に入ってから]。東電に対して、楢葉の漁師たちは漁業権を、農民たちは土地を譲るよう求められた。進んでこれにしたがう者もあれば、補償額をふっかけてまんまとせしめる者もあった。さらにまた、自分たちの生存基盤が奪われることに全力であらがう者もいた。「当時から東電には怒りを覚えました。村の原発反対派を分裂させ、しまいには一人一人金で落としていったからです」と佐藤市議は語る。その後、彼は2004年と2008年に無所属の反原発候補として、いわき市議会に当選した。


大気と地表を汚染し続ける原発
東京で講演した佐藤市議は、ちょうどテレビで目にする東電経営者たちのように、大きな胸ポケットのついた作業着を着て現れた。2時間におよぶ講演の間、彼は直立不動の姿勢をくずさず、休憩のときだけ腰を下ろした。日本人には堅実な印象をあたえる態度だが、その話しぶりはまた雄弁でもあり、聴衆を笑わせ、何度も拍手をあびた。いわき市の市議会議員である佐藤氏は、一部の聴衆が思いもしなかった政治家としての本領を発揮した。「福島の原発事故で生活は変わってしまいました。私たちはヒバクシャの世界に足を踏み入れ、今や放射能をあびた世界に暮らしているのです」、と佐藤市議は語る。声を張りあげるのではなく、さりげなく。だが、彼は、放射能事故の被害者を指して「ヒバクシャ」という語を用いた。日本ではこれまで、もっぱら広島と長崎の原爆被害者だけに使われてきた単語である。効果的なセリフだ。われわれはみなヒバクシャなのだ。

講演から3日後、ボランティアたちといわき市の壊滅した海岸沿いを移動しているとき、佐藤市議は漁師のナカタさんのところで足をとめた。いわき市の湾岸沿いに位置するナカタさんの大きな古い木造の家は、津波で半壊した。家を支える木の柱と屋根は傾き、壁は押し流されている。佐藤市議とナカタさんは、全壊を届け出て家を取り壊すのがいいか、修理をするのがいいかを話し合った。しばらくの間、市議と漁師は黙りこんだ。その後、佐藤市議は[ナカタさんに向かって]:「心配しなくていいよ。ここじゃドイツの新聞読む人なんていないから」と言った。ようやくこの漁師は取材するリポーターに顔を向ける。春めいた陽射しだが、ナカタさんは2着の分厚いウィンドブレーカーを羽織っている。今年58歳で、漁師の家業は数百年前から続いているという。「わかったよ」とナカタさんはゆっくりと口を開いた。「佐藤さんは友達だけど、彼のやってる反原発運動にはずっと感心しなかった。でも今になって思うと、佐藤さんの言ってることが正しかった。ここの人たち、8割が同じこと考えてると思うよ。家はまた建て直せるけど、放射能はずっと残るからね。」

漁師のナカタさんはひとしきりしゃべると、疲れたように視線を落とした。佐藤市議が別れを告げる。これ以上ナカタさんに迷惑をかけたくなかったのだ。放射能汚染のなか自分の将来を考えるのが、いわき市の漁師や農民や小売商にとってはきわめて難しいことを、彼はよく知っている。技術者や作業員が原子炉に近づくのも危険な状態であるため、復旧作業すら始められない状態だ。かくして原発は大気と海水と地表を汚染し続けている。いわき市の人間なら誰でも知っていることだ。特にナカタさんのような年配の日本人なら、広島や長崎の被爆者にふりかかった運命がよくわかっている。放射能物質の半減期や、何年もたってから発症するガン――戦後の日本ではこうした話がどんな学校でも教材になっていた。ナカタさんは自分のところの魚がこの先長く売り物にならなくなるだろうことを重々承知しいる。だが、そのことを口に出そうとはしない。

東京の総評会館で講演を成功させた佐藤市議は、首相への面会を試みた。結局、装飾も窓もない応接室で原子力安全当局の役人たちと1時間ほど話しただけだった。佐藤市議は、地元の議員たちと連名で、次の7点を申し入れた。原子炉冷却を改善すること、避難地域の範囲を明確にすること、放射能測定網を拡充すること、学校を当面休校にすること、農民と漁師への補償、福島県内のすべての原子力発電所を永久に停止すること、エネルギー政策の転換。かくして佐藤市議は、グリーンピースなどが唱えているのと同様の要求をかかげる日本で最初の政治家となった。ヨーロッパであれば、原子力に関するどんな議論でもこうした主張はごく標準的なものといえるだろう。だが、日本は違う。役人たちは佐藤市議の要求をにべもなくはねつけた。その直後、市議が記者会見を開いたときにも、参加したのはフリーのジャーナリスト3人のみ、みなその日一日佐藤市議を取材していた者だけだ。大手の新聞や国営テレビ局[訳注:原文のまま。NHKのことを指している]はまったく関心を示さない。

地元いわき市でも佐藤市議はいつも苦労している。「いわき市は、東電という大名がいる城下町みたいなものですよ」と彼は語る。いわき市の大半の市民はずっと前から、東電と共存共栄する道を選んだのだが、そのことを悪く思ってはいない、という。「これまで他に選択肢がなかったのです。」今回の原発事故で、それが変わるかもしれない、と佐藤市議は予感している。だが、自分の見識の高さを誇るつもりは毛頭ない。むしろ、具体的な要求に徹しようとしている。彼が求めるのは、放射能測定体制の拡充、特に120あるいわき市の学校での放射能測定だ。

「佐藤市議のやろうとしていることは意味がありませんよ」と、いわき市の副市長、鈴木英司(59)は述べる。鈴木さんも、ネクタイなしの作業着姿で、臨時の災害対策本部に記者を出迎えてくれた。市庁舎は地震で大きく損壊したためだ。彼は選挙で選ばれた政治家ではなく、いわき市職員のトップにあたり、佐藤市議の最大の敵対者だ。古い儒教的伝統のため、役人はしばしば政治家より発言力をもつ。


政治家より発言力をもつ役人たち
鈴木副市長は、原発事故の前のように話すことはできなくなったことを承知している。「これほどまで電力消費に依存した経済のあり方や生活様式を見直さないとなりません」と彼は説明する。だが、それによって具体的な問題は避けて通ろうとする。たとえば、ほとんど損傷がないとされている福島第二原発は運転を再開すべきなのか、とか、いわき市も独自の放射能測定を実施し、福島県の環境放射能測定結果に依存するのをやめるべきではないか、といった問題である。そして話が原発反対派の佐藤市議に及ぶと、鈴木副市長は不機嫌な反応を見せた。「100地点で測定するべきだという佐藤市議の論法は、私にいわせれば筋が通らない。そんなの無駄ですよ。」

今日、俸給表で鈴木さんより数ランク下の職員たちの意見は変わってきている。「いわき市の人はみんな佐藤さんを知ってます。今ではみんな原発反対です。1ヵ月前はみんな違う意見でしたが」、と市民課で働く職員の一人は述べた。年配の、もともとは保守的なタイプの男性だが、今はどうしたらまたパニックが起こるのを防げるか、考えている。もう当たりさわりのない情報にはだまされないつもりだ。「妻は野菜を買うのをやめました」と彼は小声で告げた。一介の職員である彼にとって、それはまるで秘密を打ち明けるかのような話しぶりだった。

いわき市で政権につく人々は市民の反抗心があらたに強まっていることを察知し、それに対抗していく決意である。「みんな不安になっていますが、私たちはどうしたら生活を建て直せるか、示していかなければなりません」と、与党自民党会派[志道会]の会長である根本茂さんは述べる。59歳になる根本さんは、頑固な経営者タイプの人物で、原発からさほど遠くないところに浴室用設備を作る工場を経営している。だが、放射線の危険のため、工場も閉鎖しなければならなくなった。「私も農民や漁師の方々と一緒です。仕事がなくなってしまったのです。」

だが、彼は3月11日以前の状態に戻りたいと望んでいる。彼は、東電藩の城下町にふさわしくこう語る。「日本はハンモックで寝転がっていられる南の島ではありません。原子力発電は日本の発展に恩恵をもたらすからこそ、私たちは受け容れたのです。簡単に諦めてはいけません。」同じ市議会に属する佐藤市議については一切ご免こうむるという態度だった。「佐藤市議は市民のみなさんの不安を大きくしているだけです。彼は何にでも反対だ。風力発電所を作ろうとしたら、風車に巻き込まれる鳥が心配だとか言って反対するに決まってますよ。」根本さんのような強硬派や[鈴木]副市長のような柔軟派を、東電はこれからも頼りにすることになるだろう。

それが佐藤市議にとってどれほどつらいことか、彼のそぶりから一瞬だけうかがうことができた。二人のもう成人している子供のことを話すときだ。二人は東京に暮らしており、父親と同じく原発に反対している。だからこそ二人は両親に対して、東京に移るよう勧めたのだという。だが、数日前にいわき市の両親を訪ね、父親の奮闘ぶりを目にすると、その勧めを繰り返さなくなった。「『がんばって』と言ってくれましたよ」と佐藤市議は心なしか声を震わせながら言った。彼が諦めることはけっしてないだろう。


(trad. SS)


参考:いわき再生!佐藤かずよし http://gogokazuyoshi.com/

原発運動の情報については「福島原発事故情報共同デスク」へhttp://2011shinsai.info/