今のうちにと避難区域内に帰宅する日本人たち 

The New York Times, 21 April 2011.ニューヨーク・タイムズ 2011年4月21日

http://www.nytimes.com/2011/04/22/world/asia/22japan.html

By Andrew Pollackアンドリュー・ポラック


双葉郡大熊町(日本)-- 事故を起こした福島第一原発の付近の住民たちは、政府が命ずる退避期限である午前0時を控えた木曜日[4月21日]、相次いで居住地区に戻った。

住民たちを迎えたのは変形した道路と破壊された家であり、地震津波がこうした被害をもたらした3月11日以降、このような光景は多くの日本人にとって見慣れたものとなっているが、彼らにはさらに重圧があった。第一原発から漏れ出した放射能が危険なレヴェルに達しているため、自分たちの家に何ヵ月ないし何年もの間、別れを告げねばならなかったのである。もう二度と帰れないのではないかと憂慮する者もいる。

政府が立ち入り禁止区域とした原発から12マイル圏内に位置する大熊町その他の近隣の町に一時帰宅した人々は、ゴーストタウンと化した町を目の当たりにした。信号は作動しておらず、人気のない通りを置き去りにされた犬がうろついていた。

周辺の富岡町の家族農園では、行動の自由を得た牛が庭のレタスを食べ、前庭を歩きまわっていた。浪江町の農場で見た光景は身の毛もよだつものであった。鎖で繋がれたおよそ40頭の牛が、2つの隣接する小屋の中で折り重なるようにして死んでいたのである。道路に投げ出された口から血を流す牛の死体もあった。若干の牛はまだ生きていて、まるで何事もなかったかのように、すぐ近くにのんびりと座っていた。

原発の隣町である双葉町では、原子力の素晴らしさを礼賛する広告がいくつか、人のいない通りに横たわっていた。「原子力は明るい未来のエネルギーです」というのが1つ。もう1つ、「原子力を正しく理解すれば、よりよい生活が訪れます」。

そして福島第一原発のゲートでは、白いシャツにマスク姿の労働者がナンバー・プレートを写真に撮りつつ、入場許可のない車両を追い返していた。彼らの背後にあるボードには、誰かが書いた「あきらめるな」の文字があった。

損傷を負った原子炉自体でも間違いなく熱のこもった作業が進行しているのだが、その姿は満開の桜が咲いていたりもする丘によってよく見えなかった。

原発に緊急事態が発生した直後に政府は避難区域を指定したものの、これまでこの指令には強制力がなかった。持ち物を取り戻すため、住民は避難指定区域にそっと戻ったりしていたのである。

事故直後に比べて原発周辺の放射線レヴェルが急激に下がったことが、一時帰宅の道を開いた。木曜日に避難指定区域内のさまざまな土地を巡って回ったレポーターの総被曝量はおよそ50マイクロシーヴェルト、これはニューヨーク・ロサンジェルス間のフライトの際の数値とほぼ同じである。

政府が避難を強制している今、問題になるのが、これまで指令に従わなかった人々が避難指定区域から出るかどうかである。政府によれば、震災以前に原発から半径12マイル[約20km]の圏内に居住していた人々の数は78,200人である。原発のある福島県警のスポークスマンは、過去3週間に3,378世帯を無作為に調査したところ、そのうち63世帯で住民が残っていたと述べた。

原発から12〜18マイル[約20〜30km]には、さらに62,400人の住民が暮らしている。彼らは避難するか、家から出ないよう促されている。

この外側のゾーン、原発から17マイル[約28km]のところに住むワタナベタダノリとエイコは、いずれの指示にも従わなかった。放射能に対する危惧は抱きつつ、彼らは16頭の牛を見捨てることを拒んだのだ。「牛は家族みたいなもの、ここに置き去りにはできません」と、夫とともに手押し車で堆肥を運んでいたワタナベ夫人は語った。

原発から8マイル[12km]の地点に住む南相馬の農民アベ・キヨシは、近隣では自分だけが退避しなかったという。「日本人があまりに従順なのには驚きましたね」と彼は電話で語った。

しかし、83歳のアベは、彼の年齢にもなれば、「多少の放射能なんか気にならない」というのだ。彼はガンにも罹っていて、移動などしたらかえって悪化するかもしれないという。

アベ氏と81歳になる妻は、大量の米袋とその他の食料を蓄えてあった。「食料がいっぱいの冷蔵庫と冷凍庫をもっていましたから、1年や2年は問題なく暮らせる自信がありました」。

しかし、3月26日に電力供給が止まってしまった。電力会社は避難指定区域には修理工を送ろうとしない。「だから、夜は蝋燭だけになってしまい、たくさんの食料を捨てなければならなかったんです」。妻は疲弊していったという。

だから避難が義務づけられた今、アベ氏もまた従順な日本人の1人になろうとしている。土曜日に車で圏外へ出るつもりだという。

木曜日、政府は各世帯1人ずつ2時間だけ帰宅できるバスの便を用意するつもりであることを明らかにした。とはいえ、原発から3 km(およそ2マイル)以内の家は立ち入ることができない。

しかし、多くの人々が望んだのは、家族そろって車で帰宅し、できるだけ多くの持ち物を取り戻すことであった。結果的に、人気もないはずの地区には不似合いなほどの車の行き来が生じた。ある地点では、10台の車が列をなして西から幹線道路を通じて圏内へと走ってゆく光景が見られた。警察の道路封鎖が敷かれていた地点もあったが、人々はそこを迂回して目的地へと向かった。

マスクにレインコート、ゴム手袋に加え、足にはプラスティックの買い物袋を巻いて、コヤマ・ミチコは大熊町の家に戻った。彼女はここで生まれ、50年の人生をずっと過ごしてきたのである。

地震津波が起こった翌日、彼女はあわてて自宅を離れ、自衛隊員によって避難区域外に運ばれた。水道と電気の供給が断たれた後に間に合わせで用意した食事の汚れた皿が、今も食卓の上にあった。

財産関係の書類、写真のアルバム、その他、2人の子供をはじめとする家族が滞在するホテルの狭い部屋に持ち込める大切な持ち物を確保するため、彼女は家に戻ってきた。

「家が焼け落ちてるような気がします。だから、できるだけたくさん持ってゆきたいのです」と彼女は言った。「また戻ってこられるまで何年かかるかわかりませんし。」


大熊町からはイジチ・ケン、東京からはカミイズミ・ヤスコが情報を寄せた。


(trad. TK)


参考
原発周辺住民の被ばく懸念 避難地域外で20ミリシーベルトも−47NEWS 4月20日http://www.47news.jp/47topics/e/206087.php
飯舘村「避難先ないのに避難しろは無理」―日刊スポーツ 4月30日http://www.nikkansports.com/general/news/p-gn-tp0-20110430-768578.html
福島の避難住民が台湾で“脱原発”訴えーテレ朝ニュース 4月29日http://news.tv-asahi.co.jp/ann/news/web/html/210429000.html
原発周辺住民の健康を長期調査(放射能影響研究所)ー中国新聞 4月27日http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp201104270079.html

原発運動の情報については「福島原発事故情報共同デスク」へhttp://2011shinsai.info/


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