災厄の後


The Economist, 17 March 2011エコノミスト 2011年3月17日
http://www.economist.com/node/18395981


ある種の自然災害は歴史を変える。日本の津波はその1つかもしれない。

 「Tsunami」が世界中で使われる数少ない日本語であるのは、日本にこの自然災害が多いせいだ。しかし、苦痛に満ちた日本の歴史に照らしても、現在のこの国のありさまは悲惨というしかない。マグニチュード9の地震、それは日本史上最大であり、その力は広島に投下された原爆の3万倍に相当する。地震の後に到来した波はいくつかの町を根こそぎ洗い流した。被害を受けた沿岸の集落から漏れ伝わってくる情報だけでも、恐怖の大きさは胸におちる。冷たい水の大波は、高齢のために、あるいは敏速な動きができないために、高い場所へ避難しそこなった人々を死に追いやりながら、破壊された町の残骸を何マイルも内陸へと押し流した。公式発表がいう死者5,429人という数字がもっと大きくなるのは確実である[現在までのところ、死者・行方不明者の総数は、把握されているだけでも2万7千を超える]。いくつかの町では、住民の半数以上が溺れたか、あるいは行方不明である。
 災害に直面しながら、この品の良い国民は驚くべき粘り強さを見せている。略奪は起こらず、不満を訴える津波の被害者もまれだ。東京では、納税期限に間に合うようにと人々は辛抱強く行列している。各地で見られるのは、混沌の中から多少とも秩序を生みだそうという静かな決意である。支援のためのヴォランティアが続々と駆けつけている。1995年の神戸震災への対応で混乱を見せた自衛隊も、被害を受けた地域に大量に投入された。今回の危機が生じた時点では国民から非常に低い支持しか受けていなかった菅直人首相は、最強の指導者でさえたじろぐはずの災害の連続にもかかわらず、これまでのところこの国に秩序らしきものを維持することに成功している。神戸震災の際、政府の的確さを欠いた対応は、日本人に大いに自信喪失させたものだった。


より大きな懸念 直接的な悲劇は日本のものかもしれない。しかし同時に、世界中の人々に最終的に影響してくるより長期的な疑問が投げかけられてもいる。世界第三位の力の経済への衝撃を懸念して、株式市場はたじろいだ。日本の中央銀行は、膨大な流動性を注入して財政パニックという危惧を鎮静化させたようである。トータルなダメージは早い段階で神戸の際の1000億ドルをわずかに超える程度と見積もられた。富裕な国を破綻させるほどの額ではない。電力供給の混乱は経済成長にダメージを及ぼすだろう。若干のアジアのサプライ・チェーンは早くも問題を抱えている。しかし、新たなインフラストラクチャーへの支出は地震による経済成長への重荷を多少とも相殺するだろう。
 原発の危機がさらに悪化するなら、こうした計算は劇的に変わってくるだろう。本誌が印刷に回される時点では、ヘリコプターが福島第一原発に貯蔵されている過熱化した使用済み核燃料を冷やすために水を投下していた。福島第一原発では、爆発、火事、日本の当局が認めたそれ以上と思われる放射能漏れが起こっている。この国の原子力産業は長い歴史を通じて隠蔽と無能さの露呈を繰り返しており、個々の労働者が示すヒロイズムにもかかわらず、原発を操業する東京電力による危機の管理は残念ながら過去の手際の悪さの延長線上にある。
 仮に原発事故が迅速に統御可能になり、放射能漏れが国民の健康を害するほどの規模ではなかったとしても、それでもなお、この事故は日本内外の原子力産業に対して甚大なインパクトを与えることとなろう。ドイツは既に原発の操業期限を延長するという政治的に微妙な決定に待ったをかけた。新しい原子炉建設に向けたアメリカのおぼつかない前進にも間違いなく遅れが出そうである。新たな懸念は新たなコストを意味するからである。
 中国は原子力発電の増大を目指す野心的なプランを中断することを発表した。他のあらゆる国のそれの二倍以上にあたる27の原子炉を建設中の中国は、さらに50の原子炉を建設する計画をもっている。そして、長期的に見て、現体制がこの計画から大きく後退するとは考えにくい。いずれにせよ、なんらかの世論の影響で後退することはありえない。中国はエネルギーを渇望しており、できる限り多くの泉によってこの渇きを癒そうとしているので、原発建設やさらに多くの石炭火力発電所に加え、風力やガスによる電力増大も計画されている。
 こうして、原子力に関するジレンマは深刻である。原子力の安全に最善を期するためには、良質の計画と技術だけでは不充分、アカウンタビリティと透明性を確保できるような社会、信頼を受け、信頼に値する制度をつくりだせるような社会が必要である。原子力をもついかなる国も、希望したほどにはそれを達成できていない。日本の失敗がそのことをいよいよ露呈させても不思議ではない。しかし、そうした制度をつくりだすのに最も適しているのは民主主義である。と同時に、民主主義の下では非妥協的なマイノリティが一定の勢力を持ちさえすれば物事を阻止することが相対的に容易だから、原子力の増大に向けた計画などはその格好の対象となるだろう。そのため、原子力はそれが必要とする忍耐強い安全文化の裏づけを欠きがちな社会でこそ広がってゆく可能性が大きいと思われる。現に、原発建設競争において中国に迫る競争相手はロシアなのだ。
 かといって、民主主義国が原子力に背を向けるのは間違いだろう。信頼性の高い電力を供給し、ある程度のエネルギー安全保障を可能にする、原発の建設と供給に伴うそれ以上の二酸化炭素を放出しない、といった利点は依然としてある。生命への危険という点でも、これまでのところ、ほどほどの実績を誇示している。チェルノブイリでの死者数について確かな数値を得るのは非常に難しいが、おそらく数千人というところだろう。中国の炭鉱では毎年2000-3000人の労働者が死んでいる、これは確実な数値である。そして、石炭によって汚された空気が炭鉱地帯その他でさらに多くを死に至らしめている。ある程度の原子力ポートフォリオの中に残しておくことは、ほとんどの富裕な国々にとって依然として理にかなった考え方なのだ。原子力への経済的・科学技術的な関与を維持することによってこそ、より高い水準の安全と全世界への不拡散を主張する際に、より強い立場をもちうるからである。とはいえ、パニック、不気味に立ちのぼる煙、不可視で抑え込みようのない脅威を突きつけられて、理にかなった道を選ぶことは容易ではない。


東京に戻って 最大の苦痛とともに選択に直面している国は、原子力によって脅かされ、同時に代替エネルギー源を欠いている日本である。原子力の放棄は膨大な量のガスとおそらくは石炭の輸入に国を依存させることに他ならない。原子力を維持するなら、国民的なトラウマを受けとめてそれを克服し、小さいが現実的な次なる災害のリスクを引き受けることが必要となる。
 日本であまりにも頻繁に発生してきた惨事の経験が示唆するのは、こうした出来事がしばしば大きな変化に連なることである。1923年の震災後、日本は軍国主義に転じた。第二次世界大戦での敗北と原爆投下の後、日本は平和的な経済成長を旨とした。神戸の震災は近年の日本の内向きな傾向を加速させた。
 今回の新たなカタストロフが国民の心理に同様に巨大なインパクトを及ぼす可能性は、大きいように思われる。日本国民の印象深い震災への対応ぶり、そして彼らのストイシズムを目の当たりにした世界が示した畏敬の念が、この国が切実に必要としている自信を回復させるかもしれない。原発の劣悪な管理・運営に端的に示された隠しだての多いガヴァナンスのシステムの失敗が、政治改革への要求を強めるかもしれない。放射能に関する政府の情報は信頼に足る、そして政府は津波の被災者の寒さと飢えを和らげられる、と菅首相が国民を納得させられる限りは、日本をさらに自由化しようとする彼の力は強化されるかもしれない。あるいは、事態はもっと陰鬱な展開を見せるのかもしれない。
 こえるべき壁は高い。機能不全に陥った政治システムを抱え、意気消沈した日本は、切実に変化を求めている。安全が確保された時点からふりかえった時、日本国民が今回の恐るべき事態を、単なる死と悲しみと嘆きの時としてばかりではなく、再生の時と考えることは、十分にありうることなのだ。


(trad. TK)


6.11 脱原発100万人アクション!(全国各地)6月11日は、福島原発震災から3ヶ月。
今なお放射能の放出は続いています。私たちは、人や自然を傷つける電気はいりません。全国各地域の人々とともに、6月11日に脱原発を求める100万人アクションを呼びかけます。6月11日は、声をあげましょう!今こそ脱原発へ!!  http://nonukes.jp/wordpress/

黙ってられない!声を上げよう!!