災厄の後


The Economist, 17 March 2011エコノミスト 2011年3月17日
http://www.economist.com/node/18395981


ある種の自然災害は歴史を変える。日本の津波はその1つかもしれない。

 「Tsunami」が世界中で使われる数少ない日本語であるのは、日本にこの自然災害が多いせいだ。しかし、苦痛に満ちた日本の歴史に照らしても、現在のこの国のありさまは悲惨というしかない。マグニチュード9の地震、それは日本史上最大であり、その力は広島に投下された原爆の3万倍に相当する。地震の後に到来した波はいくつかの町を根こそぎ洗い流した。被害を受けた沿岸の集落から漏れ伝わってくる情報だけでも、恐怖の大きさは胸におちる。冷たい水の大波は、高齢のために、あるいは敏速な動きができないために、高い場所へ避難しそこなった人々を死に追いやりながら、破壊された町の残骸を何マイルも内陸へと押し流した。公式発表がいう死者5,429人という数字がもっと大きくなるのは確実である[現在までのところ、死者・行方不明者の総数は、把握されているだけでも2万7千を超える]。いくつかの町では、住民の半数以上が溺れたか、あるいは行方不明である。
 災害に直面しながら、この品の良い国民は驚くべき粘り強さを見せている。略奪は起こらず、不満を訴える津波の被害者もまれだ。東京では、納税期限に間に合うようにと人々は辛抱強く行列している。各地で見られるのは、混沌の中から多少とも秩序を生みだそうという静かな決意である。支援のためのヴォランティアが続々と駆けつけている。1995年の神戸震災への対応で混乱を見せた自衛隊も、被害を受けた地域に大量に投入された。今回の危機が生じた時点では国民から非常に低い支持しか受けていなかった菅直人首相は、最強の指導者でさえたじろぐはずの災害の連続にもかかわらず、これまでのところこの国に秩序らしきものを維持することに成功している。神戸震災の際、政府の的確さを欠いた対応は、日本人に大いに自信喪失させたものだった。


より大きな懸念 直接的な悲劇は日本のものかもしれない。しかし同時に、世界中の人々に最終的に影響してくるより長期的な疑問が投げかけられてもいる。世界第三位の力の経済への衝撃を懸念して、株式市場はたじろいだ。日本の中央銀行は、膨大な流動性を注入して財政パニックという危惧を鎮静化させたようである。トータルなダメージは早い段階で神戸の際の1000億ドルをわずかに超える程度と見積もられた。富裕な国を破綻させるほどの額ではない。電力供給の混乱は経済成長にダメージを及ぼすだろう。若干のアジアのサプライ・チェーンは早くも問題を抱えている。しかし、新たなインフラストラクチャーへの支出は地震による経済成長への重荷を多少とも相殺するだろう。
 原発の危機がさらに悪化するなら、こうした計算は劇的に変わってくるだろう。本誌が印刷に回される時点では、ヘリコプターが福島第一原発に貯蔵されている過熱化した使用済み核燃料を冷やすために水を投下していた。福島第一原発では、爆発、火事、日本の当局が認めたそれ以上と思われる放射能漏れが起こっている。この国の原子力産業は長い歴史を通じて隠蔽と無能さの露呈を繰り返しており、個々の労働者が示すヒロイズムにもかかわらず、原発を操業する東京電力による危機の管理は残念ながら過去の手際の悪さの延長線上にある。
 仮に原発事故が迅速に統御可能になり、放射能漏れが国民の健康を害するほどの規模ではなかったとしても、それでもなお、この事故は日本内外の原子力産業に対して甚大なインパクトを与えることとなろう。ドイツは既に原発の操業期限を延長するという政治的に微妙な決定に待ったをかけた。新しい原子炉建設に向けたアメリカのおぼつかない前進にも間違いなく遅れが出そうである。新たな懸念は新たなコストを意味するからである。
 中国は原子力発電の増大を目指す野心的なプランを中断することを発表した。他のあらゆる国のそれの二倍以上にあたる27の原子炉を建設中の中国は、さらに50の原子炉を建設する計画をもっている。そして、長期的に見て、現体制がこの計画から大きく後退するとは考えにくい。いずれにせよ、なんらかの世論の影響で後退することはありえない。中国はエネルギーを渇望しており、できる限り多くの泉によってこの渇きを癒そうとしているので、原発建設やさらに多くの石炭火力発電所に加え、風力やガスによる電力増大も計画されている。
 こうして、原子力に関するジレンマは深刻である。原子力の安全に最善を期するためには、良質の計画と技術だけでは不充分、アカウンタビリティと透明性を確保できるような社会、信頼を受け、信頼に値する制度をつくりだせるような社会が必要である。原子力をもついかなる国も、希望したほどにはそれを達成できていない。日本の失敗がそのことをいよいよ露呈させても不思議ではない。しかし、そうした制度をつくりだすのに最も適しているのは民主主義である。と同時に、民主主義の下では非妥協的なマイノリティが一定の勢力を持ちさえすれば物事を阻止することが相対的に容易だから、原子力の増大に向けた計画などはその格好の対象となるだろう。そのため、原子力はそれが必要とする忍耐強い安全文化の裏づけを欠きがちな社会でこそ広がってゆく可能性が大きいと思われる。現に、原発建設競争において中国に迫る競争相手はロシアなのだ。
 かといって、民主主義国が原子力に背を向けるのは間違いだろう。信頼性の高い電力を供給し、ある程度のエネルギー安全保障を可能にする、原発の建設と供給に伴うそれ以上の二酸化炭素を放出しない、といった利点は依然としてある。生命への危険という点でも、これまでのところ、ほどほどの実績を誇示している。チェルノブイリでの死者数について確かな数値を得るのは非常に難しいが、おそらく数千人というところだろう。中国の炭鉱では毎年2000-3000人の労働者が死んでいる、これは確実な数値である。そして、石炭によって汚された空気が炭鉱地帯その他でさらに多くを死に至らしめている。ある程度の原子力ポートフォリオの中に残しておくことは、ほとんどの富裕な国々にとって依然として理にかなった考え方なのだ。原子力への経済的・科学技術的な関与を維持することによってこそ、より高い水準の安全と全世界への不拡散を主張する際に、より強い立場をもちうるからである。とはいえ、パニック、不気味に立ちのぼる煙、不可視で抑え込みようのない脅威を突きつけられて、理にかなった道を選ぶことは容易ではない。


東京に戻って 最大の苦痛とともに選択に直面している国は、原子力によって脅かされ、同時に代替エネルギー源を欠いている日本である。原子力の放棄は膨大な量のガスとおそらくは石炭の輸入に国を依存させることに他ならない。原子力を維持するなら、国民的なトラウマを受けとめてそれを克服し、小さいが現実的な次なる災害のリスクを引き受けることが必要となる。
 日本であまりにも頻繁に発生してきた惨事の経験が示唆するのは、こうした出来事がしばしば大きな変化に連なることである。1923年の震災後、日本は軍国主義に転じた。第二次世界大戦での敗北と原爆投下の後、日本は平和的な経済成長を旨とした。神戸の震災は近年の日本の内向きな傾向を加速させた。
 今回の新たなカタストロフが国民の心理に同様に巨大なインパクトを及ぼす可能性は、大きいように思われる。日本国民の印象深い震災への対応ぶり、そして彼らのストイシズムを目の当たりにした世界が示した畏敬の念が、この国が切実に必要としている自信を回復させるかもしれない。原発の劣悪な管理・運営に端的に示された隠しだての多いガヴァナンスのシステムの失敗が、政治改革への要求を強めるかもしれない。放射能に関する政府の情報は信頼に足る、そして政府は津波の被災者の寒さと飢えを和らげられる、と菅首相が国民を納得させられる限りは、日本をさらに自由化しようとする彼の力は強化されるかもしれない。あるいは、事態はもっと陰鬱な展開を見せるのかもしれない。
 こえるべき壁は高い。機能不全に陥った政治システムを抱え、意気消沈した日本は、切実に変化を求めている。安全が確保された時点からふりかえった時、日本国民が今回の恐るべき事態を、単なる死と悲しみと嘆きの時としてばかりではなく、再生の時と考えることは、十分にありうることなのだ。


(trad. TK)


6.11 脱原発100万人アクション!(全国各地)6月11日は、福島原発震災から3ヶ月。
今なお放射能の放出は続いています。私たちは、人や自然を傷つける電気はいりません。全国各地域の人々とともに、6月11日に脱原発を求める100万人アクションを呼びかけます。6月11日は、声をあげましょう!今こそ脱原発へ!!  http://nonukes.jp/wordpress/

黙ってられない!声を上げよう!!

東京電力:女性社員1人が多量の被曝

http://www.lemonde.fr/japon/article/2011/04/27/tepco-une-employee-exposee-a-des-radiations-tres-elevees_1513374_1492975.html


Le Monde, le 27 avril 2011ル・モンド 2011年4月27日


事故が起きた福島原子力発電所で働いていた女性1人が法定許容限度の3倍の線量を被曝していたと、水曜日、東京電力の担当者が発表した。政府は東電を厳しく批判している。

資材管理に従事していたこの女性の被曝量は、17.55ミリシーベルトだった。女性の許容上限は3か月間で5ミリシーベルトである。妊娠した場合の胎児に及ぼしうる危険を考慮して、女性の上限は男性よりも低く設定されている。彼女を含む、発電所構内で勤務していた東京電力のおよそ20名の女性社員は、原発事故の発生から12日後の3月23日に現場を離れている。


「きわめて遺憾」東電は3月11日に日本の東北地方に甚大な被害を与えた地震津波で損壊した原子力発電所で作業する社員たちの被曝記録を分析し、その結果を受けて今回の発表となった。東電の責任者は「ミスだった。申し訳ない」と述べ、被曝量の管理をもっと徹底しておくべきだったことを認めた。

この事態に対して「きわめて遺憾」だと、原子力安全・保安院の西山英彦審議官はコメントした。さらに、「調査して、なぜ、どのようにして起こりえたのかを解明したい」と述べた。東京電力には「納得できる回答」を求める意向だ。

フクシマの事故後、原子力発電所で緊急作業にあたる男性の被曝許容上限は、従来の年100ミリシーベルトから250ミリシーベルトにまで引き上げられた。年100ミリシーベルト以上を被曝すると、その後の癌のリスクが高まる。「摂取した」放射線が蓄積され、そこにさらに新たな被曝が上積みされていくことを考えれば、なおさらである。


調査へ菅直人首相の補佐官である細野豪志は、水曜日、厳しい言葉で原発の担当者の態度を批判した。「東京電力はたいへんに保守的な会社で、変化を嫌う(……)が、津波電源喪失に対する備えがきちんとなされていたのかどうか、調査する必要がある」、と考えを明らかにした。「その調査の結果は国際社会にも受け入れられるものでなければならない」と述べたうえで、外国の専門家が調査に加わることは「もちろんありうる」という判断を示した。

東電の担当者は、放射線量が低下し始めるまでに3か月、放射能漏れが「十分に低い」レベルに落ち着くにはさらに3か月から6か月を要すると見積もっている。


(trad. SM)


参考:女性の被ばく限度超過2人に=東電「今後はすぐ避難」−福島第1http://www.jiji.com/jc/eqa?g=eqa&k=2011050100061
女性被ばくで東電が報告書、現場に換気装置設置http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20110503-OYT1T00283.htm
福島第1原発:東電女性社員被ばく 免震棟の扉にゆがみhttp://mainichi.jp/select/jiken/news/20110503k0000m040136000c.html
女性も十数人…両親不明も「被災者である前に原発職員」http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110328/dst11032815150036-n1.htm


6.11 脱原発100万人アクション!(全国各地)6月11日は、福島原発震災から3ヶ月。
今なお放射能の放出は続いています。私たちは、人や自然を傷つける電気はいりません。全国各地域の人々とともに、6月11日に脱原発を求める100万人アクションを呼びかけます。6月11日は、声をあげましょう!今こそ脱原発へ!!  http://nonukes.jp/wordpress/

黙ってられない!声を上げよう!!

ポスターと原子力


http://japon.blogs.liberation.fr/magnitude9/

Libération 20/04/2011
リベラシオン 2011年4月20日

Erikoエリコ


地震津波からしばらくして、たくさんのポスターを集めた新しいインターネットサイトが現れた。そのポスターのほとんどは、国の復興と電気の節約を訴えるものだ。被災地の生産物を消費するよう呼びかけたり、福島の住人に対して偏見を持たないよう呼びかけたりするものもある。インターネットの利用者は、このポスターを無料で印刷したり、ダウンロードしたりして、職場や自宅で使えるようになっている。
参考:復興支援ポスター配布サイトhttp://pstr.jp/


最近になってできた「復興の狼煙」というもう一つのサイトでは、岩手県の被災者たちの大きな写真を提供している。このプロジェクトは、災害の後、岩手と福島を訪れた写真家の馬場龍一郎が立ち上げたものだ。
参考:復興の狼煙ポスタープロジェクトhttp://fukkou-noroshi.jp/


ポスターと言うと、経済産業省文部科学省が主催し、日本原子力開発財団が協賛するコンクールのことも考える。主催者はこのコンクールの目的を明言している。原子力エネルギーが、「地球温暖化対策としても重要な役割を担ってい」るのを示すこと。
参考:経済産業省「第17回原子力ポスターコンクールの受賞作品発表について」http://www.meti.go.jp/press/20101105004/20101105004.html


最近のコンクールの応募要項には、こんなメッセージがある。
―「大切な電気をつくる原子力発電」
―「石油や石炭、天然ガスを燃やすと、二酸化炭素が出ます。[…] 原子力発電で使うウラン燃料は、発電の時に二酸化炭素を出しません。」
―「リサイクルできるウラン燃料」
―「原子力発電所で使い終わった燃料のうち再利用できない約5%は「高レベル放射性廃棄物」といい、いわば原子力発電所から出る電気のごみで、強い放射線を出します。人のくらしや環境に影響が出ないように、 東京タワーの高さより深い地下へ処分することにしています。」
参考:第17回原子力ポスターコンクール応募要項www.mext.go.jp/b_menu/houdou/.../1294983_01_1.pdf


2009年に賞をとったのは、10歳の男の子と13歳の女の子の描いたポスターだった。この幼い男の子のポスターには、こう書かれていた。「ぼくたちのみらいを運ぶ原子力」。


子供たちに原子力の効用を擁護させるのは、幼い頃から洗脳するのとかわらない。でも、それも国家の側からすれば合理的な選択ではある。なにしろ、原子力発電所を運営し続けなければならないのは、次の世代の子供たちなのだから。かつてこのコンクールに参加した子供たちは、大人になったいま、何を考えているだろう?


政府が中止しないかぎり、今年、このコンクールは第18回を迎えることになる。既にいくつかのNGOが、中止を求めて署名運動を始めてはいるのだけれど.....


(trad. KO)


原子力ポスターコンクール、その狂気の世界http://d.hatena.ne.jp/tsumiyama/20101129/p1
原子力ポスターコンクール中止要求署名(5月31日まで)http://i-wind.jp/stop_nuke/index.php


5.7 原発やめろデモ!!!!!!! 渋谷・超巨大サウンドデモ
14:00 渋谷区役所前交差点集合!
15:00 前代未聞の超巨大デモ!!!!!
http://57nonukes.tumblr.com/

今のうちにと避難区域内に帰宅する日本人たち 

The New York Times, 21 April 2011.ニューヨーク・タイムズ 2011年4月21日

http://www.nytimes.com/2011/04/22/world/asia/22japan.html

By Andrew Pollackアンドリュー・ポラック


双葉郡大熊町(日本)-- 事故を起こした福島第一原発の付近の住民たちは、政府が命ずる退避期限である午前0時を控えた木曜日[4月21日]、相次いで居住地区に戻った。

住民たちを迎えたのは変形した道路と破壊された家であり、地震津波がこうした被害をもたらした3月11日以降、このような光景は多くの日本人にとって見慣れたものとなっているが、彼らにはさらに重圧があった。第一原発から漏れ出した放射能が危険なレヴェルに達しているため、自分たちの家に何ヵ月ないし何年もの間、別れを告げねばならなかったのである。もう二度と帰れないのではないかと憂慮する者もいる。

政府が立ち入り禁止区域とした原発から12マイル圏内に位置する大熊町その他の近隣の町に一時帰宅した人々は、ゴーストタウンと化した町を目の当たりにした。信号は作動しておらず、人気のない通りを置き去りにされた犬がうろついていた。

周辺の富岡町の家族農園では、行動の自由を得た牛が庭のレタスを食べ、前庭を歩きまわっていた。浪江町の農場で見た光景は身の毛もよだつものであった。鎖で繋がれたおよそ40頭の牛が、2つの隣接する小屋の中で折り重なるようにして死んでいたのである。道路に投げ出された口から血を流す牛の死体もあった。若干の牛はまだ生きていて、まるで何事もなかったかのように、すぐ近くにのんびりと座っていた。

原発の隣町である双葉町では、原子力の素晴らしさを礼賛する広告がいくつか、人のいない通りに横たわっていた。「原子力は明るい未来のエネルギーです」というのが1つ。もう1つ、「原子力を正しく理解すれば、よりよい生活が訪れます」。

そして福島第一原発のゲートでは、白いシャツにマスク姿の労働者がナンバー・プレートを写真に撮りつつ、入場許可のない車両を追い返していた。彼らの背後にあるボードには、誰かが書いた「あきらめるな」の文字があった。

損傷を負った原子炉自体でも間違いなく熱のこもった作業が進行しているのだが、その姿は満開の桜が咲いていたりもする丘によってよく見えなかった。

原発に緊急事態が発生した直後に政府は避難区域を指定したものの、これまでこの指令には強制力がなかった。持ち物を取り戻すため、住民は避難指定区域にそっと戻ったりしていたのである。

事故直後に比べて原発周辺の放射線レヴェルが急激に下がったことが、一時帰宅の道を開いた。木曜日に避難指定区域内のさまざまな土地を巡って回ったレポーターの総被曝量はおよそ50マイクロシーヴェルト、これはニューヨーク・ロサンジェルス間のフライトの際の数値とほぼ同じである。

政府が避難を強制している今、問題になるのが、これまで指令に従わなかった人々が避難指定区域から出るかどうかである。政府によれば、震災以前に原発から半径12マイル[約20km]の圏内に居住していた人々の数は78,200人である。原発のある福島県警のスポークスマンは、過去3週間に3,378世帯を無作為に調査したところ、そのうち63世帯で住民が残っていたと述べた。

原発から12〜18マイル[約20〜30km]には、さらに62,400人の住民が暮らしている。彼らは避難するか、家から出ないよう促されている。

この外側のゾーン、原発から17マイル[約28km]のところに住むワタナベタダノリとエイコは、いずれの指示にも従わなかった。放射能に対する危惧は抱きつつ、彼らは16頭の牛を見捨てることを拒んだのだ。「牛は家族みたいなもの、ここに置き去りにはできません」と、夫とともに手押し車で堆肥を運んでいたワタナベ夫人は語った。

原発から8マイル[12km]の地点に住む南相馬の農民アベ・キヨシは、近隣では自分だけが退避しなかったという。「日本人があまりに従順なのには驚きましたね」と彼は電話で語った。

しかし、83歳のアベは、彼の年齢にもなれば、「多少の放射能なんか気にならない」というのだ。彼はガンにも罹っていて、移動などしたらかえって悪化するかもしれないという。

アベ氏と81歳になる妻は、大量の米袋とその他の食料を蓄えてあった。「食料がいっぱいの冷蔵庫と冷凍庫をもっていましたから、1年や2年は問題なく暮らせる自信がありました」。

しかし、3月26日に電力供給が止まってしまった。電力会社は避難指定区域には修理工を送ろうとしない。「だから、夜は蝋燭だけになってしまい、たくさんの食料を捨てなければならなかったんです」。妻は疲弊していったという。

だから避難が義務づけられた今、アベ氏もまた従順な日本人の1人になろうとしている。土曜日に車で圏外へ出るつもりだという。

木曜日、政府は各世帯1人ずつ2時間だけ帰宅できるバスの便を用意するつもりであることを明らかにした。とはいえ、原発から3 km(およそ2マイル)以内の家は立ち入ることができない。

しかし、多くの人々が望んだのは、家族そろって車で帰宅し、できるだけ多くの持ち物を取り戻すことであった。結果的に、人気もないはずの地区には不似合いなほどの車の行き来が生じた。ある地点では、10台の車が列をなして西から幹線道路を通じて圏内へと走ってゆく光景が見られた。警察の道路封鎖が敷かれていた地点もあったが、人々はそこを迂回して目的地へと向かった。

マスクにレインコート、ゴム手袋に加え、足にはプラスティックの買い物袋を巻いて、コヤマ・ミチコは大熊町の家に戻った。彼女はここで生まれ、50年の人生をずっと過ごしてきたのである。

地震津波が起こった翌日、彼女はあわてて自宅を離れ、自衛隊員によって避難区域外に運ばれた。水道と電気の供給が断たれた後に間に合わせで用意した食事の汚れた皿が、今も食卓の上にあった。

財産関係の書類、写真のアルバム、その他、2人の子供をはじめとする家族が滞在するホテルの狭い部屋に持ち込める大切な持ち物を確保するため、彼女は家に戻ってきた。

「家が焼け落ちてるような気がします。だから、できるだけたくさん持ってゆきたいのです」と彼女は言った。「また戻ってこられるまで何年かかるかわかりませんし。」


大熊町からはイジチ・ケン、東京からはカミイズミ・ヤスコが情報を寄せた。


(trad. TK)


参考
原発周辺住民の被ばく懸念 避難地域外で20ミリシーベルトも−47NEWS 4月20日http://www.47news.jp/47topics/e/206087.php
飯舘村「避難先ないのに避難しろは無理」―日刊スポーツ 4月30日http://www.nikkansports.com/general/news/p-gn-tp0-20110430-768578.html
福島の避難住民が台湾で“脱原発”訴えーテレ朝ニュース 4月29日http://news.tv-asahi.co.jp/ann/news/web/html/210429000.html
原発周辺住民の健康を長期調査(放射能影響研究所)ー中国新聞 4月27日http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp201104270079.html

原発運動の情報については「福島原発事故情報共同デスク」へhttp://2011shinsai.info/


5.7 原発やめろデモ!!!!!!! 渋谷・超巨大サウンドデモ
14:00 渋谷区役所前交差点集合!
15:00 前代未聞の超巨大デモ!!!!!
http://57nonukes.tumblr.com/

一人で東電に立ち向かう男

http://www.zeit.de/2011/16/Einer-gegen-Tepco

ツァイト 2011年4月15日、ゲオルク・ブルーメ


≪ゴム長靴にガイガーカウンター:一地方議員が日本の政府と原子力産業に挑戦する≫
いわき/東京: 市議の姿はおおぜいの人の中でほとんど見分けがつかない。もっともそれは、すっかり顔がおおわれているせいでもある。二枚重ねのマスク、全身レインコート、ゴム長靴という出で立ちだ。いわき市小名浜支所、午前9時。34万人の人口を擁するいわき市は、福島原子力発電所付近で最大の都市だ。放射能漏れの続く原子炉まで、ここから45キロ。われわれが佐藤和良(かずよし)市議と会った小名浜支所では、もう人々が忙しく働いている。1階は、復興支援や補償やヨウ素剤を求める人々であふれかえる。


【写真:東京、東電本社前でデモに参加する原発反対派の人々】

ミヤザワさんはセーターを着て、穴のあいたジーンズにピンクのスニーカーを履いている。佐藤市議は彼に、レインコートとゴム長靴をつけるよう勧める。ミヤザワさんとその仲間たちは、路上で一晩明かした。これからすぐに彼らの仕事が始まる。佐藤市議は2つのグループをつくった。一方のグループは、津波被災者の支援作業、もう一方のグループは、原発周囲の避難勧告地域で放射線測定をおこなう。市議は、第1のグループのために小名浜支所の裏手にある倉庫からスコップをもってきて、第2のグループにはガイガーカウンターを渡した。佐藤市議が小型ジープで先導する。その経路は小名浜港一帯を通る。そこでは大きな船が港の岸壁に乗り上げていたり、樹の上に巨大な鳥のように自動車が引っかかっている。付近一帯の住宅地域は津波で壊滅した。普段の面影はあとかたもない。


広島・長崎の被爆者たちの会館で

この3日前の東京で、佐藤市議は、震災後に日本の原発反対派が開いた最初の集会にメインの講演者として参加していた。会場となったのは総評会館、世界中の反原発運動家に知られる、労働組合のための会館だ。ここには広島・長崎の被爆者たちの団体[原水爆禁止日本国民会議原水禁)]も本部をおいている。1980年代まではここで、世界中の放射能汚染の被害者が参加する会議が定期的に開かれていた。その後は、この団体の周囲も静かになっている。広島と長崎の被爆者として活発にかかわった人々は死去した。日本ではやがて彼らのスローガン「核と人類は共存できない」に誰も耳を貸そうとしなくなった。福島の事故が起こった今日、状況は変わっただろうか?
参考: 現地報告:津波原発災害を受けたいわき市の今 http://monsoon.doorblog.jp/archives/51817902.html

その晩、佐藤市議はほぼ満員の会場を前にして話した。300人あまりの聴衆が参加したが、若い人は少ない。その分だけ、頭に白いものの混じった層が多く感じられる。この人々はかつて、ドイツの68年世代と同じように、因襲やベトナム戦争に挑んで結集した世代に属している。日本でこの世代に属する人々は、[年を取っても]髪を染めないことで見分けがつく。佐藤市議も同世代だ。もっとも、彼は57歳で少し若いし、髪も染めているのだが。

1960年代末、まだティーンエージャーだった佐藤市議は、活発に政治運動にコミットしていた両親とともに平和運動に参加した。父親は鉄道職員で、当時最大の鉄道労働組合にいた。母親は教師で、きわめて反核色の強い教職員組合で活動していた。一家は、楢葉町の、福島第二原子力発電所から8キロほど離れたところで暮らしていた。60年代、エネルギー会社の東京電力は、この第二原発と、今日原子力事故が起こっている15キロほど北の第一原発を同時期に建設し始めた[注記:ウィキペディアによれば、第二原発の着工は1970年代に入ってから]。東電に対して、楢葉の漁師たちは漁業権を、農民たちは土地を譲るよう求められた。進んでこれにしたがう者もあれば、補償額をふっかけてまんまとせしめる者もあった。さらにまた、自分たちの生存基盤が奪われることに全力であらがう者もいた。「当時から東電には怒りを覚えました。村の原発反対派を分裂させ、しまいには一人一人金で落としていったからです」と佐藤市議は語る。その後、彼は2004年と2008年に無所属の反原発候補として、いわき市議会に当選した。


大気と地表を汚染し続ける原発
東京で講演した佐藤市議は、ちょうどテレビで目にする東電経営者たちのように、大きな胸ポケットのついた作業着を着て現れた。2時間におよぶ講演の間、彼は直立不動の姿勢をくずさず、休憩のときだけ腰を下ろした。日本人には堅実な印象をあたえる態度だが、その話しぶりはまた雄弁でもあり、聴衆を笑わせ、何度も拍手をあびた。いわき市の市議会議員である佐藤氏は、一部の聴衆が思いもしなかった政治家としての本領を発揮した。「福島の原発事故で生活は変わってしまいました。私たちはヒバクシャの世界に足を踏み入れ、今や放射能をあびた世界に暮らしているのです」、と佐藤市議は語る。声を張りあげるのではなく、さりげなく。だが、彼は、放射能事故の被害者を指して「ヒバクシャ」という語を用いた。日本ではこれまで、もっぱら広島と長崎の原爆被害者だけに使われてきた単語である。効果的なセリフだ。われわれはみなヒバクシャなのだ。

講演から3日後、ボランティアたちといわき市の壊滅した海岸沿いを移動しているとき、佐藤市議は漁師のナカタさんのところで足をとめた。いわき市の湾岸沿いに位置するナカタさんの大きな古い木造の家は、津波で半壊した。家を支える木の柱と屋根は傾き、壁は押し流されている。佐藤市議とナカタさんは、全壊を届け出て家を取り壊すのがいいか、修理をするのがいいかを話し合った。しばらくの間、市議と漁師は黙りこんだ。その後、佐藤市議は[ナカタさんに向かって]:「心配しなくていいよ。ここじゃドイツの新聞読む人なんていないから」と言った。ようやくこの漁師は取材するリポーターに顔を向ける。春めいた陽射しだが、ナカタさんは2着の分厚いウィンドブレーカーを羽織っている。今年58歳で、漁師の家業は数百年前から続いているという。「わかったよ」とナカタさんはゆっくりと口を開いた。「佐藤さんは友達だけど、彼のやってる反原発運動にはずっと感心しなかった。でも今になって思うと、佐藤さんの言ってることが正しかった。ここの人たち、8割が同じこと考えてると思うよ。家はまた建て直せるけど、放射能はずっと残るからね。」

漁師のナカタさんはひとしきりしゃべると、疲れたように視線を落とした。佐藤市議が別れを告げる。これ以上ナカタさんに迷惑をかけたくなかったのだ。放射能汚染のなか自分の将来を考えるのが、いわき市の漁師や農民や小売商にとってはきわめて難しいことを、彼はよく知っている。技術者や作業員が原子炉に近づくのも危険な状態であるため、復旧作業すら始められない状態だ。かくして原発は大気と海水と地表を汚染し続けている。いわき市の人間なら誰でも知っていることだ。特にナカタさんのような年配の日本人なら、広島や長崎の被爆者にふりかかった運命がよくわかっている。放射能物質の半減期や、何年もたってから発症するガン――戦後の日本ではこうした話がどんな学校でも教材になっていた。ナカタさんは自分のところの魚がこの先長く売り物にならなくなるだろうことを重々承知しいる。だが、そのことを口に出そうとはしない。

東京の総評会館で講演を成功させた佐藤市議は、首相への面会を試みた。結局、装飾も窓もない応接室で原子力安全当局の役人たちと1時間ほど話しただけだった。佐藤市議は、地元の議員たちと連名で、次の7点を申し入れた。原子炉冷却を改善すること、避難地域の範囲を明確にすること、放射能測定網を拡充すること、学校を当面休校にすること、農民と漁師への補償、福島県内のすべての原子力発電所を永久に停止すること、エネルギー政策の転換。かくして佐藤市議は、グリーンピースなどが唱えているのと同様の要求をかかげる日本で最初の政治家となった。ヨーロッパであれば、原子力に関するどんな議論でもこうした主張はごく標準的なものといえるだろう。だが、日本は違う。役人たちは佐藤市議の要求をにべもなくはねつけた。その直後、市議が記者会見を開いたときにも、参加したのはフリーのジャーナリスト3人のみ、みなその日一日佐藤市議を取材していた者だけだ。大手の新聞や国営テレビ局[訳注:原文のまま。NHKのことを指している]はまったく関心を示さない。

地元いわき市でも佐藤市議はいつも苦労している。「いわき市は、東電という大名がいる城下町みたいなものですよ」と彼は語る。いわき市の大半の市民はずっと前から、東電と共存共栄する道を選んだのだが、そのことを悪く思ってはいない、という。「これまで他に選択肢がなかったのです。」今回の原発事故で、それが変わるかもしれない、と佐藤市議は予感している。だが、自分の見識の高さを誇るつもりは毛頭ない。むしろ、具体的な要求に徹しようとしている。彼が求めるのは、放射能測定体制の拡充、特に120あるいわき市の学校での放射能測定だ。

「佐藤市議のやろうとしていることは意味がありませんよ」と、いわき市の副市長、鈴木英司(59)は述べる。鈴木さんも、ネクタイなしの作業着姿で、臨時の災害対策本部に記者を出迎えてくれた。市庁舎は地震で大きく損壊したためだ。彼は選挙で選ばれた政治家ではなく、いわき市職員のトップにあたり、佐藤市議の最大の敵対者だ。古い儒教的伝統のため、役人はしばしば政治家より発言力をもつ。


政治家より発言力をもつ役人たち
鈴木副市長は、原発事故の前のように話すことはできなくなったことを承知している。「これほどまで電力消費に依存した経済のあり方や生活様式を見直さないとなりません」と彼は説明する。だが、それによって具体的な問題は避けて通ろうとする。たとえば、ほとんど損傷がないとされている福島第二原発は運転を再開すべきなのか、とか、いわき市も独自の放射能測定を実施し、福島県の環境放射能測定結果に依存するのをやめるべきではないか、といった問題である。そして話が原発反対派の佐藤市議に及ぶと、鈴木副市長は不機嫌な反応を見せた。「100地点で測定するべきだという佐藤市議の論法は、私にいわせれば筋が通らない。そんなの無駄ですよ。」

今日、俸給表で鈴木さんより数ランク下の職員たちの意見は変わってきている。「いわき市の人はみんな佐藤さんを知ってます。今ではみんな原発反対です。1ヵ月前はみんな違う意見でしたが」、と市民課で働く職員の一人は述べた。年配の、もともとは保守的なタイプの男性だが、今はどうしたらまたパニックが起こるのを防げるか、考えている。もう当たりさわりのない情報にはだまされないつもりだ。「妻は野菜を買うのをやめました」と彼は小声で告げた。一介の職員である彼にとって、それはまるで秘密を打ち明けるかのような話しぶりだった。

いわき市で政権につく人々は市民の反抗心があらたに強まっていることを察知し、それに対抗していく決意である。「みんな不安になっていますが、私たちはどうしたら生活を建て直せるか、示していかなければなりません」と、与党自民党会派[志道会]の会長である根本茂さんは述べる。59歳になる根本さんは、頑固な経営者タイプの人物で、原発からさほど遠くないところに浴室用設備を作る工場を経営している。だが、放射線の危険のため、工場も閉鎖しなければならなくなった。「私も農民や漁師の方々と一緒です。仕事がなくなってしまったのです。」

だが、彼は3月11日以前の状態に戻りたいと望んでいる。彼は、東電藩の城下町にふさわしくこう語る。「日本はハンモックで寝転がっていられる南の島ではありません。原子力発電は日本の発展に恩恵をもたらすからこそ、私たちは受け容れたのです。簡単に諦めてはいけません。」同じ市議会に属する佐藤市議については一切ご免こうむるという態度だった。「佐藤市議は市民のみなさんの不安を大きくしているだけです。彼は何にでも反対だ。風力発電所を作ろうとしたら、風車に巻き込まれる鳥が心配だとか言って反対するに決まってますよ。」根本さんのような強硬派や[鈴木]副市長のような柔軟派を、東電はこれからも頼りにすることになるだろう。

それが佐藤市議にとってどれほどつらいことか、彼のそぶりから一瞬だけうかがうことができた。二人のもう成人している子供のことを話すときだ。二人は東京に暮らしており、父親と同じく原発に反対している。だからこそ二人は両親に対して、東京に移るよう勧めたのだという。だが、数日前にいわき市の両親を訪ね、父親の奮闘ぶりを目にすると、その勧めを繰り返さなくなった。「『がんばって』と言ってくれましたよ」と佐藤市議は心なしか声を震わせながら言った。彼が諦めることはけっしてないだろう。


(trad. SS)


参考:いわき再生!佐藤かずよし http://gogokazuyoshi.com/

原発運動の情報については「福島原発事故情報共同デスク」へhttp://2011shinsai.info/

チェルノブイリの教訓は生かされなかった

http://abonnes.lemonde.fr/idees/article/2011/04/25/les-lecons-de-tchernobyl-n-ont-pas-ete-tirees_1512523_3232.html


LEMONDE | 25.04.11 | 13h50 • Mis à jour le 26.04.11 | 09h32ル・モンド 2011年4月25日(26日9時32分更新)


1986年4月26日、チェルノブイリ原子力発電所の第4号炉が爆発した。科学者の間で、この原子力事故と、放射線に直接曝された地域での出生率減少との間に関係があることを疑う者はいない。とりわけベラルーシでは、出生率が5.9%も落ち込む「大量死」の様相を見せている。

出生率が暴落する一方、死亡率についてのデータは十分憂慮に値する値を示している。とりわけ、心臓・循環器系疾患とガンの数値が年々上昇しているのだ。出生率の減少は、男女両性の生殖器系の機能障碍と、胚や胎児の成長に影響を及ぼす重大な疾患に結びついている。またチェルノブイリは、25年間にわたって、セシウム137をはじめとする放射性物質に曝されてきたため、代謝機能の失調と遺伝子の衰弱を起こした多くの人の健康を害している。

ベラルーシウクライナとロシアの旧ソ連邦諸政府は、チェルノブイリの事故によって引き起こされた問題を処理する能力をまったく持たなかった。この失敗の最大の原因の一つは、放射能が人の健康に及ぼす影響について、客観的な情報が欠けていたことにある。この情報統制はおおむね、原子力関連の圧力団体と、ベラルーシの独裁体制の癒着によっておこったものだ。

フクシマで原子力発電所から放射性物質が生態系に放出され続けており―この放出はまだ当分続くことになる―、チェルノブイリの爆発によって起こされた放射能汚染の記憶を呼び起こしつつある現在、これらの地域での放射能被曝への予防措置の適用は緊急を要している。何年にもわたって、ヨーロッパからの援助はチェルノブイリ原子力発電所そのものの保安と石棺化に集中してきた。4月19日、ヨーロッパ共同体執行委員会はさらに1億1千万ユーロの支援を決めた。とはいえ、こうした支援金の一部を医療プロジェクトに用いることがぜひとも必要なのだ。

いうまでもなく、放射能被曝に対する予防措置が、人体にとって有害で・致死的でもある疾病の対策として有効なものとなるには、具体的な政治的アクションと正確な情報の流通が不可欠である。

この点はきわめて重要だ。なるほど、チェルノブイリの災厄をめぐる数々の「異常」が、民主主義国でありうる状況とはどれほど異なったものであったとしても、公正な情報へのアクセスは決して自明のものではないからである。

そのことを我々はふたたび、フクシマの原発事故に際して確認することになった。だが原子力災害において、この[公正な情報へのアクセス]という原則には、文字通り命がかかっているのだ!


オルタナティヴは存在するだとすると、キエフの「エコロジーと健康」連絡・分析センター[注]の重要性が理解できるだろう。このセンターの任務のうちには、放射能汚染された地域の状況の客観的な評価と、不幸にして原子力災害になった際の住民と救援隊員の保護のために必要な措置がある。ヨーロッパをさらなる放射能汚染から守るため自己を犠牲にした数十万の「墓堀人」を含め、チェルノブイリの事故で被害を受けた人々のリハビリを行なうセンターの設立もまた同様である。この機関は、放射能被曝による疾病に悩む人々が必要とする予防とリハビリについて、これまでにない専門的な技術と知識を備えるにいたっている。
[注] キエフエコロジーと健康」連絡・分析センター(英・仏・露語)
http://chernobyl-today.org/index.php?option=com_content&view=article&id=49&Itemid=40&lang=en


このパイオニア的なプロジェクトは、他の放射能汚染地域でも、さらには他の原子力事故の場合にも適応されうる、きわめて貴重なものだ。同様のプロジェクトをフクシマの周辺地域でも立ち上げることができよう。原子力技術と放射能のもたらすさまざまな帰結は、人間にとってきわめて現実的な脅威となっている。

眼を塞ぐことさえなければ、核兵器増強競争と民生の原子力エネルギー発展政策が、どれほどバカげているかすぐに理解できるはずだ。フランスの国境線が、チェルノブイリ放射能を帯びた雲や、少し話はかわるが、イタリアからやってくる北アフリカの難民の乗った列車を、魔法の力で跳ね返してくれるように見えるとしても、次第に多くの市民がこの原子力技術に結びついたリスクを意識し始めている。

チェルノブイリとフクシマの事故という悲劇的な局面のほかにも、「小規模の」と形容されるあれこれの事故や、放射性廃棄物原発の解体にかかわる未解決の問題を考慮しなければならない。この後衛の軍事テクノロジーは、公共の財政に、めまいを起こさせるほどの膨大な負担を強いているばかりではない。直接・間接の被曝が人間に及ぼす諸々の帰結は、原子力への依存から少しずつでも脱却することを、真剣に考えるよう我々に促している。

脱原発はもはや単に「幻視者たちの夢」ではなく、いくつかの政府においては、十分に実現可能な一つの政治的選択とされている。そうした政府のうちには、世界経済においてフランスよりもはるかに優位にある、ドイツが含まれることを思い起こしておこう。

原子力にかわる代替エネルギーはすでに存在している。そのことは、かねてから環境保護団体や、多くの有名な研究者・技術者たちが示してきた。そんな研究者・技術者たちからは、「ネガワット」計画[注]も提唱された。しかし、2050年まで環境保護のための制約を遵守しつつ、脱原発を可能にするテクノロジーがあるにもかかわらず、まだ原子力エネルギーの再興という神話にこだわっている国々が存在するのである。
[注]『ネガワット』ペーター・ヘニッケ、ディーター・ザイフリート著 朴勝俊訳 ECCJ刊。「ネガワット」とは「使われなかった電力」のこと。エネルギーの使い方を変えて、「使われなかった電力」=「節電所」を建設しようというのが本書の主張である。発想を変えてみると日常生活や企業の中でもその可能性が意外と高いことに驚かされる(ドイツの実践例でそれを示している)。企業や行政のみならず、NPOや、地球温暖化防止と省エネルギーに取り組むすべての人たちに示唆と勇気を与えてくれる一冊。http://www.eccj.or.jp/book/new23.html


ヨーロッパのエネルギーの未来と温室効果ガスの削減は、今後10年間の我々の投資にかかっている。原子力エネルギー推進者と再生可能エネルギー推進者の対抗関係のなかで、「古き良き」原子力テクノロジーを選択するのか、それとも反対に、持続可能で責任ある未来を建設するのを可能にするテクノロジーを選択するのかは、ひとえに我々自身にかかっているのである。


Yuri Bandajevsky, Michèle Rivasi et Daniel Cohn-Bendit


ユーリ・バンダジェフスキー(解剖病理学教授、ゴメル医科大学学長[ベラルーシ])ミシェル・リヴァジ(ヨーロッパ議会議員、Criirad放射能に関する独立研究・情報委員会 [注] 創設者)
ダニエル・コーン=ベンディット(ヨーロッパ議会 緑の党グループ代表)[注] 放射能に関する独立研究・情報委員会。チェルノブイリ事故の際、フランス政府は、フランスが遠隔地にあるので放射性物質の「雲」からいっさい影響を受けないと述べ、多くの人々が放射性物質に汚染された牛乳、チーズ、野菜などを食べることになった。このことをきっかけとして、1986年に結成されたフランスの非営利組織(アソシアシオン)。本ブログ4月11日の項「フクシマ:惨事を市民のコントロール下に!」も参照。


(trad. KO)


参考:チェルノブイリ原子力発電所事故Wikipediahttp://ja.wikipedia.org/wiki/チェルノブイリ原子力発電所事故
「4号機では依然、緊張が続いている」―中日新聞http://www.chunichi.co.jp/article/column/syunju/CK2011042702000010.html
「フクシマ 人類の記憶に」…チェルノブイリ事故25年、原子力サミット―産經新聞http://sankei.jp.msn.com/world/news/110420/erp11042000510002-n1.htm
独 10万人以上デモ―しんぶん赤旗http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2011-04-27/2011042705_01_1.html
日本大使館からデモ行進 伊反原発団体ら―47NEWShttp://www.47news.jp/news/2011/04/post_20110427005800.html
原発いらない チェルノブイリ事故25年 札幌で市民集会―北海道新聞http://www.hokkaido-np.co.jp/news/sapporo/288912.html
東電本店前、福島の牛伴い抗議「早く賠償を」ー読売新聞http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110426-OYT1T00470.htm
東京電力本店前でデモ 原発廃止を訴え―日テレニュースhttp://news24.jp/articles/2011/04/27/07181719.html
避難者も反原発訴えデモ 大阪で200人ー朝日新聞http://mytown.asahi.com/osaka/news.php?k_id=28000001104270002
東日本大震災:「市民で議論を」 松江市原発考える集会―毎日新聞http://mainichi.jp/area/shimane/news/20110426ddlk32040627000c.html
チェルノブイリ原発事故:25年 反原発訴え、市民デモ /鹿児島ー毎日新聞http://mainichi.jp/area/kagoshima/news/20110427ddlk46040619000c.html


原発運動の情報については「福島原発事故情報共同デスク」へhttp://2011shinsai.info/

反原発運動の覚醒

Le réveil des anti-nucléaires
Libération le 14 avril 2011リベラシオン 2011年4月14日

http://japon.blogs.liberation.fr/magnitude9/2011/04/le-r%C3%A9veil-des-anti-nucl%C3%A9aires.html

Eriko エリコ

原発事故が発生してから、時事通信社の報道には、繰り返しひとりの大学助教が登場した。権威ある京都大学の原子炉実験所助教小出裕章である。この実験所は、原子力施設の安全性を研究する専門施設だ。小出の大学での肩書きを見たとき、私は「きっと若くて優秀な専門家なんだろう」と思った。けれどもじきに、この研究者が想像していたような30代の人物ではなくて、60代の人物だと知った。彼は歳をとってからこの分野の研究を始めたのだろうか? そうではないのだ。彼は1974年以来ずっとこのポストに就いている。1974年以降、まったく昇進なしに。しかし、そんな珍しい大学でのキャリアの理由はすぐに理解できる。40年間、彼は反原発運動を展開してきたからだ。小出は原子力関連の施設の危険性を指摘し、そうした施設の建設に反対する裁判闘争にかかわる人々を支援するために、数冊の本を著している。日本で国家のエネルギー政策に反対することは、困難な闘いばかりではなく、社会的な制裁に直面することも意味する。実際、小出の挑んだ闘争のすべては、原発推進派によってくつがえされていった。彼が反原発運動にかかわり始めた頃、日本列島にたった3基しかなかった原発は、現在では54基にものぼっている。最近の講演で、彼は自分の闘争をこう総括している。「私のたどってきた道は、敗北の歴史です」。

もうひとり、原発推進派にうるさがられている人物がいる。しかし、彼のやりかたはまた小出とは随分異なっている。シンガーソングライターの斉藤和義は、自作の中でも一番有名な歌をアレンジして、反原発の替え歌を歌った。去年、資生堂のコマーシャルソングとして作った「ずっと好きだった」という歌のタイトルをかえて、「ずっとウソだった」として歌い、YouTubeで発表したのだ。この歌の冒頭、「この町を歩けば、蘇る16才」は、「この国を歩けば、原発が54基」に、「ずっと好きだったんだぜ、相変わらず奇麗だな。ホント好きだったんだぜ、ついに言い出せなかったけど」は、「ずっとウソだったんだぜやっぱ、ばれてしまったな。ホント、ウソだったんだぜ、原子力は安全です」にかえられている。4月6日、斉藤が自作の替え歌をひとりで演奏する姿を映した映像がYouTubeにアップされた。彼のディスクの発売元であるビクター・エンターテインメントは、反原発の歌を歌っているのが斉藤本人であると認めたが、「私的に」収録されたこの映像が公表されたのを遺憾なこととして、YouTubeに映像の公開停止を求めた。どんな経緯でこの映像がネット上にアップされたのかはわからないけれど、この映像のコピーはインターネット上で大量に流布した。また、斉藤和義は4月8日のコンサートでもこの「闘争歌」を歌い、そのインターネット上での中継は30000人以上の視聴者を集めたので、一時的にサーバーがパンクして放映が中断されたほどだった。

言うまでもなく、私たちの社会ではこれまで反原発の意志表明は歓迎されてこなかった。俳優の山本太郎Twitter上で告白している。「反対。って言うと、芸能界で仕事干されるんです、御存知でした?でも言ってやります、反対!」メディアが反原発運動にアレルギー反応を示す理由はすぐ分かる。電力会社が大口の広告スポンサーだからだ。今なお、東京電力は、消費者に節電を求める広告を配信しているのである。

とはいえ、日本はどうやら変化しつつあるらしい。福島原発事故の発生まで、きわめて少数派だった反原発運動に多くの人々が加わりつつある。4月10日のデモには主催者発表で15000人が参加した。デモへの参加者が異端視される、この日本という国で。

(trad. AM)



小出裕章http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%87%BA%E8%A3%95%E7%AB%A0
斉藤和義「ずっとウソだった」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9A%E3%81%A3%E3%81%A8%E5%A5%BD%E3%81%8D%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F
山本太郎Twitterhttp://twitter.com/#!/yamamototaro0/status/56387719269593088

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